七十七.
翌朝。
目覚めた蓮は操ににこりと笑い掛けると、愛らしい脣で朝の挨拶を告げた。
ひとつ接吻けを残した蓮は、操を置いたまま元気に牀を飛び出し、卓にあった鈴を取り上げてりんりんと鳴らす。人を呼べない蓮に不自由だろうと、婆が用意してくれた物だ。
「そなた。何を始めるのだ?」
このまま抱こうか、湯殿に連れて行こうか。
そんな矢先にするりと腕から抜けられて、操は少々ご機嫌斜めだ。
『一緒に府に帰ろう』
仏頂面で座す操の掌に、蓮が文字を綴った。
「ああ、心配しているのか。大丈夫だ。文若が巧くやっておる。しばらくゆっくりしよう」
だが、蓮は首を振る。
『ダメだよ。みんな待ってるもの』
「そうか。ならば明日帰ろう。今日一日は良いであろう?』
髪を絡め、引き寄せようとする腕を、蓮がそっと押し止めた。
「冷たいではないか。孤はこれほどまでにそなたを想うておるに」
『嬉しいけど今はダメ。我慢してね』
蓮は愛らしい仕草で操に腕を廻すと、なだめるつもりなのか、頬にひとつ接吻けを残した。
たまらずに操は溜め息をつく。
これではむしろ逆効果ではないかと、つれない想い人へ視線を送る。
「お目覚めかえ?」
呼ばれた婆が室へと入って来た。
蓮は操の傍から駆け寄ると、おはよう。と言葉を象取り、にこりと笑った。
『心配掛けてごめんなさい。そしてありがとう。蓮はもう大丈夫』
「……そうか、そうか。今日は良い朝だな」
婆は少し驚いた様子だったが、嬉しそうに何度も頷いて寄越した。
その瞳が、少し、潤んでいた。
『蓮はおなかが空いたの』
「おお。それならすぐに整えような」
『ありがとう。それまでに湯へ行って来るね』
蓮がぱたぱたと駆け出す。
「孟徳様、良かったのお……」
元気な少年の姿に、婆の瞳から涙が零れた。
「いかん、いかん。涙腺が緩い。歳のせいかの」
慌ててそれを拭う。
「泣きたいのはこっちだ。いきなりそれはないだろう。この想いを、いったいどうしてくれるのだ」
収まらないのは操だ。
額に掌をあてたまま、ぶつくさと呟く。
「くそう。このまま湯殿に追ってくれようか」
ぎろりとその先を睨みつける操に、思わず婆が笑いを零した。
「久々に焦がれているお前様を見るのも、また良いものよな」
笑われて操はますます拗ねた。覚えていろよの心境だった。
「婆、しまったぞ。孤は蓮に足の事を訊くのを忘れた」
突然話題が変わり、婆は驚く。
が、同時に呆れて、笑いも漏れた。
――この方の頭の中は、いったいどうなっているのやら。
子供のころから何かと手を焼かされて来たものだと、婆は懐かしく瞳を細めた。
「もういまさら良いじゃないか。あんな明るい貌して、良く脱したものよなあ。孟徳様は、たいしたお方よ」
「まだまだだよ、婆。蓮はやっとここから始まる。今少し、甘えさせてやってくれ」
「任せておくれ。婆は蓮には大甘だよ」
凛と澄んだ冬の朝を僅かに暖めて、ふたりの笑みが行き交った。
「さあ、蓮に美味い物を揃えてやらねば。あの子が自分から食事の催促だ。嬉しやのお」
許に来た当初からすれば随分回復したものの、蓮は今でも食が細い。
育ち盛りの身には到底足らぬと心配し、何かと気を配っている婆は嬉しくてならないのだろう。うきうきとした足取りで、いそいそと室を出て行く。
婆よ。孤も腹を減らしておるのだが……
ひとり残された操は、自分が忘れ去られているような気がして、やれやれと苦笑を落とすのだった。




