七十三.
「それにしても、蓮は良く雒陽に留まっていてくれたな。誰ぞに附いて行ったなら、こうして逢う事は叶わなかった。天の啓示だな」
操は努めて明るい声で言い、蓮に頬をすり寄せた。
『あなたに逢う日が来るなんて想像もしなかった。廃墟の雒陽を見た時、やっぱりそこには何も無いと思ったけれど、それは間違いなのかもしれないね』
「そうだ。その意気だ。孤もそなたも来るべくして雒陽へ来たのだ。互いを呼び合ったのかもしれぬぞ」
そんな事を言って笑う操に、蓮も口元をほころばせた。
『あなたが来てくれて、やっと長い旅が終わるのだと思った』
蓮は、そのころを思い出すように遠くを見つめた。
『あなたに引き合わされた時、自分がとても恥ずかしかった。消えてしまいたかった……』
自らへ刃を向けた心境だろうか。本当に消え入りそうな蓮に、操の腕は思わず力がこもる。
『蓮はもう疲れきっていた。ただ眠りたかった。あなたならきっと蓮を解放してくれると思った』
「孤はそなたの望む通りに蓮を解放してやろう。憎い者があれば殺してやる。全てはお前の望むがままだ。だから何処へも行くな。ずっと孤の傍にいてくれ」
そんな操に蓮が微笑む。
『蓮は誰も憎くない。あなたはもう蓮を解放してくれた。だから、蓮はここにいるのだ。ただ……』
「ただ?」
言いあぐねる蓮を操が促す。
『蓮は操に禍を呼ぶかもしれない。もしそうなら、耐えられない』
涙ながらに記すと、蓮はわっと泣き伏した。
「蓮が禍を呼ぶ?」
その言葉の意味を解そうと思考を巡らせるが、さっぱり思い当たらない。
「何を言っておるのだ。そなたのどこがなんだと申すのだ。泣かずと教えてくれまいか」
操に抱き起こされ、蓮はようよう文字を綴った。
『霊帝陛下は若くして崩御された。何大将軍も董太師も不幸なことになったし、王司徒もそうだった。蓮にかかわると、良くない事が起きる』
何を言い出したのやらと、呆れる思いで口を開き掛けた操は、ああそうかと思う。蓮が操に供された目的は、阿諛や懐柔だけでなく、そういう効果をも狙っての事だったのか。蓮はそれを耳にしていたのだろう。
蓮を庇護した時、もし刺客だったら危険だと、懸念する声は確かにあった。
もちろん操は一笑に付した。
少年の腕は、短剣も振り回せぬほどにか細い。仮に毒薬でも使うとして、身ひとつで保護された彼には、それを持ち込むことも、外から入手する事も困難である。その上で暗殺を成し遂げると言うのなら、最期に天晴と褒め称えて死んでやろうと思った。
それほどに蓮は無力である。
それでも、腕力も体力も人並み以下の蓮を使ってでも、物理的に殺そうと仕掛けて来るならまだマシ。そう思わせるほどに、まじない以下のこの陰謀はお粗末が過ぎる。
権力を握る者が敗れるとは、地位や財産だけでなく、当然その命が懸かって来る。覇権争いとはそういったものである。操とて同じだ。この乱世に兵を率いて身を投じた時から、当然覚悟は出来ている。
その、覇権争いによる生き死にを、蓮が呼んだ禍と解釈し、よりによって迷信の類を一切信じない男に送り込む。
画策した者の程度が知れる、あまりの馬鹿馬鹿しさに、操はふつふつと笑いが込み上げて来た。
声を上げて笑い出した操に、蓮は驚いたように貌を向けた。
「いかにも胆のない奴の考えそうなことだと思うてな」
くつくつと笑いを零しながら、蓮の頬を拭う。
「いやいや。おかげで孤はそなたを手に入れたのだ。文句を言うては悪いな」
全く意に反さない操に、蓮はちょっぴり不満そうである。
「お前はそう言うがな、呂布の奴はまだまだしぶといぞ」
『蓮だってそんなこと忘れていたけれど、楊将軍が亡くなったと知って怖くなった。操に何かあったら、どうしよう……』
「そうさなあ。そなたを得ると早死にすると言うのなら、後悔せぬように存分に抱いておこうか」
にやにやと笑い、瞳を覗き込む操に、蓮は困ったように視線を泳がせる。
ほんのりと眦を染めるその様が愛らしく、操は蓮を搔き抱いた。