七十一.
「蓮が許に来たばかりのころ、孤は何かと辛く当たったな。そなたは理由が解らぬままに、泣いて過ごした事もあっただろう。孤を憎いとは思わなかったか」
『操がなぜそうしたのか蓮は知っている』
「ならばなぜ、楊奉はそれをしなかった。あれにはあれの言い分があろう。だが孤は、それを知りたいとは思わぬ。それは、孤とは相容れぬものだ」
「蓮。そなたは孤を選んだのだ。他の誰でもない、この操と共に生き、共に過ごす事を選んだのだ。そうであろう?」
蓮の大きな瞳から再び涙が零れ、頬を濡らした。
蓮はひとつ頷くと、操の胸に貌を埋めた。
脣が何度も何度も謝罪の言葉を象取った。
小さく震える肩を抱き止めながら、操は静かな声で続けた。
「なぜ謝る。そなたがこうして思い悩むのは、先に進もうとしているからだ。孤に隠しておきたくないというお前の直ぐな想いであり、過去を精算し、きちんと決別したいと願う向上の心だ。それは素晴らしい事だ。喜ばしい事なのだよ。そして、こうして向き合うのが孤であったことを嬉しく思うよ」
本当?
貌を上げた蓮が問い返す。
「嘘を言ってどうする」
蓮は感謝の言葉を象取ると、操の首に腕を廻し、かじりつくように泣き縋った。
『蓮は怖かった。ずっとずっと怖くてたまらなかった。何が怖いのかも、どうしたら良いのかも解らなくて、ただ怖くて怖くてたまらなかった』
誰もいない孤独。
失うかもしれない恐怖。
進もうとする焦りと引き返そうとするジレンマ。
自分への怒りと世の中への不信。拒絶。絶望。
狂って行く己さえ、蓮は感じていたかもしれない。
「怖ければそう申せ。泣きたければ縋れば良い。ここに孤がいるのだ。独りでこらえずと、孤を頼れ」
良いな。
蓮の涙を拭いながら、操が重ねる。
蓮はこくりと頤を引いてそれに応えると、小さく肩を揺らしながら文字を綴った。
『こんなに泣いたの初めてだ。操は蓮の事をもの凄い泣き虫だと思っているだろうけど、これでも小さいころからほとんど泣かなかったんだよ』
「幼子とは泣くものだろう?」
照れ隠しなのか、そんな事を言う蓮が可愛らしく、操は真っ赤な鼻をつつく。
『本当だもん。あんまり泣かないから、乳をやるのさえ忘れたって。蓮は手が掛からなくて良い子だと言われたけれど、放って置かれるのも、ちょっと寂しかったかな』
婆が言っていた。
枕童達は潜在的に甘える事に飢えている。そう育てられる。
だから閨で辛い思いをしても、どこかでそれを拒めない。自らが可愛がってもらえる手段がなんなのか。暖かな人の肌に触れられる場所が何処なのか。身に染みて解っているからだ。
「孤はの、そなたを枕童として扱うつもりはなかった。そのために許に連れて来たのでは断じてない。いまさら何をと思うてくれるな。これは、言うつもりのなかった事だ」
言い訳がましいと我ながら思う。それでも伝えなければと操は思った。
「蓮。そなたはな、閨での事を抜きにしても、充分愛されるべき人間だ。それを識っておいてくれ。自分の価値がそれだけだなどと、思うてはならぬぞ」
操の言葉に蓮は少し考え込んだ。
『操は最初に蓮を抱いた時、それが蓮の存在理由だって言ったでしょう』
「いや、それはな……」
責めて言っているのではないのだと、蓮が首を振る。
『どうして操がそう言ったのか、今はちゃんと解ってる。でも、その時の蓮はね、なんてひどい事言うんだろうって思った』
蓮はそっと瞳を閉じた。
『でもね、同時に何かがストンと落ちたの。ああ、そうか。って。ああ、蓮はそれでいいんだって。なんだか、そんな気持ちになれたの』
潤いを含んだままの黒燿が向けられる。
『操はそうやって、蓮の事を全部受け入れてくれたんだね。なのに、蓮はなかなか前へ進めない』
己に落胆しているのだろう。
蓮は、深い深い溜め息を落とした。
「――蓮。先程、自分は愛してもらえる資格が無い。穢れていると言ったな。なぜそう思う? そなた、誰ぞにそう言われたのではないのか?」
蓮は驚いて貌を上げたが、滲む瞳を隠すように、慌ててそれを伏せた。
蓮とは、閨房のためにこの世に生を受け、育てられた特殊な子供である。その遍歴を非難されるのは、自分の存在そのものを否定されたと同じ事だった。
俯く蓮に操が重ねた。