七十.
『蓮はね、雒陽に残った時、とうとう楊将軍にも捨てられたのかと言われたの。蓮は自分でそこに残ったのだし、それは事実ではないのだけれど、瑕物だからと言われれば、そうなのかなとも思った』
操の言葉にしばし思案する様子を見せていた蓮は、やがて操の手を取りそう綴った。
「楊奉に言われたのではないのだろう?」
『そうだね。でも、安邑で再会してから一度も蓮を抱かなかったから、やっぱりそう思っていたのかもしれない』
蓮は、少し寂しそうに自嘲った。
「なぜ楊奉のもとを離れた」
問い掛けて、知りたいのは逆かもしれないと操は思った。
なぜ楊奉は、蓮を離したのだろう。
『車騎様は、ぼろぼろだった蓮に心を尽くしてくれた。けれど、それが良い事ではないとみんな思っていた。蓮よりも大切な事がたくさんあるのに、なぜそれをしないのかと周囲の人達は言ったし、蓮もそう思った。蓮はそこにいてはいけない気がして幕を出た。楊将軍は迎えに来てくれたけれど、こうも言った。軍は梁に移る事になった。蓮が雒陽にいたいのなら、このまま残っても良いと。そうして蓮は雒陽に残った』
「それからずっとひとりでいたのか?」
『楊将軍が韓将軍に頼んで行ってくれた。あの、でも、韓将軍とは何もないよ。いつでも梁へ送って行くからと笑っていた。李将軍も胡将軍も怖い人達だったけど、蓮には優しくしてくれたの』
韓暹、李楽、胡才。共に白波の将である。
盗賊には盗賊の義があるのだろう。彼らは互いに争うこともあったが、楊奉とは概ね良い関係を保っていたようだ。
特に韓暹は人物は粗暴との評判であったが、楊奉と仲違いする事はなく、曹軍との戦に敗れ、放浪するようになってからも、彼らは行動を共にしていた。
『蓮は、韓将軍のおかげで何も不自由しなかったけれど、それが心苦しくもあった。危ないから陣を出てはいけないと言われたのだけれど、どうしても人の気配とか足音とかが怖くて……。耐えられなくなるとそっと抜け出して、廃墟の中で過ごしたよ。瓦礫の宮には蓮を庇ってくれる場所が、たくさんあったから。蓮は、雒陽で死ねたらいいなと、なんとなく思っていた』
蓮はその時を思うように、そっと瞳を閉じた。
『蓮はなぜか雒陽が恋しかった。蓮の過ごした場所がもう無いのは知っていたけれど、そこに行けば何かあるような気がしていた。瓦礫ばかりの宮殿を見て、悲しくも思ったけれど、逆にその時の蓮には良かったのかな。蓮には似合いの場所だと思ったよ』
それは、似合いの死に場所という意味だろうか。
『本当は、楊将軍は雒陽へ行く事に反対だった。もしかしたらそれを曲げたのは、蓮のわがままだったかもしれない。一度だけ、将軍が訊ねたことがあった。雒陽に帰りたいかって。蓮はいつもと一緒で何も応えなかったけれど、懐かしいなって思った。それが、解ってしまったのかもしれない』
楊奉らが最後まで雒陽行幸に反対していたのは事実である。
白波の将達にとっては、雒陽への移動は勢力圏から遠ざかる。韓暹は残ったものの、李楽と胡才は袂を分かつ事となる。
最終的に楊奉が詔を受け入れる形で雒陽行幸は成ったが、蓮の言う事が真実かもしれないと操も思った。
『もしかしたら、雒陽に行ける日が来るのかもしれない。それなら、もう少しがんばってみようと思った』
蓮にとってそれは希望となった。ほとんど口に出来ぬままだった食事に手を伸ばすようになり、時節柄、陽気が良かった事もあり、牀を離れる時間も持つようになった。
その頃、南匈奴の於夫羅が平陽を拠点としており、白波賊と友好関係にあった。帝の援軍として右賢王の去卑が共に駆けつけており、そこから栄養価の高い乳製品なども手に入り、蓮の命をつないでくれた。
全ては楊奉あっての事である。
安邑で過ごした日々は混濁していて、ただもがいてた記憶しかない。それでも、楊奉が支えてくれていた事は、蓮も理解していた。
『車騎様は、本当に本当に良くしてくれた。だけど、蓮は何ひとつ応えられなかった。そして操と一緒にいるようになると、蓮はもうその事を忘れてしまった。許に来てからあの人がどうしているかなんて、考えたこともなかった。なんて薄情なのだろう……』
操の陣営に徐晃と謂う武将がいる。
彼はかつて楊奉の部下であったが、操がその武勇に惚れ込み、掻き口説いて旗下に迎えた。
楊奉のもとにいた彼は、当然その当時の事を知っている。
特別とやかく言う男ではないのだが、余程腹に据えかねたのだろう。あれだけ楊奉の世話になっておきながらと、蓮を非難するような言葉をもらしたと伝え聞いている。
傍から見ていた者が憤りを感じるほどに、楊奉は蓮に心を砕いていた。
それでも彼は、最終的に蓮を手放した。
操もここに至るまでの過程において様々に思い悩んだから、楊奉の苦しみが解らぬとは云わない。
蓮の世話をしていた寿安を失ったのも痛手であっただろうし、戦にさえ勝っていれば蓮は守り得たかもしれない。そして、かの地まで蓮を連れて来たのは楊奉自身なのだ。その自責の念は想像に余りある。
けれども操は、それに同情する気も、それを認める気持ちもなかった。
「その時傍にいたのが孤なら、蓮を離さなかっただろう。拒めば縛り上げてでも梁へ連れて行った。あの廃都にそなたを残して行けたのは、それだけの想いでしかなかったのだと思うし、それが孤の愛し方だ。蓮が薄情なのではない。孤の想いが勝っていたのだ」
操の言葉に蓮は涙に濡れた瞳を上げた。
それをまっすぐに受け止めながら、操は続けた。