六十九.
『蓮は最初の頃、楊将軍の事がただ怖かった』
楊奉は躰が大きく口数の少ない武骨な男だった。
勇敢ではあるが、やや思慮は浅いから、物事に直面すれば頭脳より腕力が先に立つ。
物を言わず、そもそも意を伝える事を知らない蓮と向き合おうとすれば、そこにあるのは困難である。苛立ちについ手が上がった。
ただ楊奉は、その行為を正当化する人ではなかった。彼の中で、それはしてはならない事だったのだろう。自分に懐かぬのは当然だと、僅かに哀し気な表情を浮かべるだけで、蓮を責めなかった。
『一緒にいるようになると、だんだん不器用な人だと解って来た』
陣中の暮らしとは、寝床は風雨を凌げれば上等であり、食事は飢えぬためのもの。水も貴重だった。
毎日のように湯を使い、やわらかな夜具に包まれていた蓮にとっては、衝撃を感じる程の環境の変化である。
そして、寿安は容赦なくそれを口にする。甲斐性がないと言わぬばかりの物言いにも、楊奉はただ押し黙っていた。
『興義様は、滋養を採れと鳥粥をふるまってくれりしたけれど、寿安との会話から、自分で仕留めて手ずからこしらえていたと知って、とても驚いた。寿安も呆れて、誰かにやらせればと言ったら、蓮の事は自分の勝手で決めたから、配下の者は関係ないのだと……。熱があると夜も看てくれたのだけれど、時々居眠りしたり、疲れているのにどうしてだろうとずっと思っていた』
つらい思いさせてすまねえ……。闇の中で、彼はぽつりと言った。
蓮の事はあくまでも私事だと、全てを抱え込んでいた彼の心情を知るにつけ、蓮は何とかしたいと思うようになった。
そして、情勢も少しずつ見えて来る。
帝が陣に逃げ込んで来る程楊奉を頼りとしている事も、彼の軍勢が常に矢面に立って一行を護っている事も、見聞きするにつれ蓮の思いは強くなって行った。
『出来る事は自分でやらなければと思ったし、まずは寝込まないようにがんばったのだけれど、なかなか上手く行かなかった』
「おおかた無理をしたのであろう」
『……きちんと養生しないと却って長引くのだと阿婆に教えてもらって、その頃のやり方が間違っていたと知った』
しょんぼりと俯く。
焦りのあった蓮は、少しでも良くなるとすぐに床を上げ、結局またぶり返す悪循環に陥っていた。
戦時下という状況も多分に影響した。敵に追われる日々では、ゆっくり養生も叶わない。
『周囲の人達も興義様をとても心配して、時には諫めたり、彼を手伝って蓮の面倒を看てくれた』
実際に戦って、楊奉軍の結束力と士気の高さは操も目の当たりにした。将に統率力があり、配下の者達に慕われている証である。
仮に、同数で正面から力比べをしたならば、楊奉に分があったかもしれない。ただ、操には智謀がある。力任せに押して来る軍は、むしろ御しやすかった。
『楊将軍はお匙を連れて来たり、食べ物とか着る物とか、他の白波の将軍達もいろいろ届けてくれたけど、それは正当な物だったのだろうか……』
蓮は抱えていた懸念を口にした。
彼らは出自が盗賊である。いや、彼らだけではない。どこに属していようと、武装集団など盗賊と紙一重なのだ。略奪で必要な物資を補うのは日常だった。
『楊将軍が蓮の為に無理を通すから、敵も増えるし評判も落ちると周りは心配していた。李大司馬は蓮を傍に置いてから、どんどん享楽的で疑い深くなったと聞くし、董太師でさえ昔はあんな人ではなかったと話す人もいる。
――蓮が、そうさせているのだと……』
差し俯いた蓮は思い詰めたように貌を上げ、操を見つめた。
『操も蓮は褒姒だと思うか』
「褒姒か。なるほどな」
操にも、その言わんとしている事は理解出来る。
笑わぬ褒姒の笑顔見たさに、周の幽王は手を尽くし、それはやがて国の滅亡へとつながった。夏の桀王の末喜、殷の紂王の妲己と並ぶ亡国の美女である。
ただ、これらは過分に教訓めいた逸話であり、事実かどうかはまた別の話だった。
「孤が見たいのは蓮の笑顔だけではない。拗ねた貌も、困った貌も可愛いから、意地の悪い事も言うてみたくなる。幽王よりも欲深いのかもしれぬな」
そんな冗談を言って笑う。
確かに操も蓮の笑顔が見たいと思った。愛しい者を喜ばせたいと願うのは、当然の心の動きだろう。
董卓らも蓮の歓心を得ようと、様々な物を与えたはずだ。しかしそれは、結局安易な自己満足なのだ。
そして操が得たいのは、蓮の真からの嬉びであり、幸福であり、充足だった。冗談抜きに、自分は彼らよりずっと欲深いのだと思う。
かつての蓮は、ほぼその感情を現す事がなかった。操自身、色々と心を悩ませたから、楊奉なりに苦心していたのは想像がつく。あの董卓でさえ、内心は憂慮していたのかもしれない。
だが、相手がすでに鬼籍にあろうとも、恋敵に塩など贈らぬ操である。
そして、今こうして蓮と共にあり、愛くるしい表情を眺められるのは自分なのだ。多少の優越感を抱いたとしても罰は当たるまい。
なめらかな頬を撫で、生者の証であるぬくもりを感じながら、操は続けた。
「ならば、こう考えるのはどうだ。褒姒が平素から笑えば、幽王は偽りの烽火を上げ、諸侯を欺く事もなかった。蓮が笑っていれば孤は幽王にならずに済む。そう思い、存分に愛らしい様を見せてくれぬか」
蓮は唖然と操を見つめ、それからふふと微笑った。
『操は凄い』
「であろう? そなたの想い人は存外凄い男なのだぞ」
笑い、抱きしめる。
「ずっとそんな懸念を抱いていたのだな。話のついでだ。他もあらば言うてしまえ」