六.
そこは、舟の上でも輌の中でもなかった。
蓮の躰は夜具に包まれ、牀にあった。
ここは、何処なのだろう……
どこからどこまでが夢なのかさえ、蓮には解らなくなっていた。
「おや。目が覚めたのかい」
小柄な老婆が室にやって来ると、そう言って蓮を覗き込んだ。
「混乱しているね。ここは許。曹孟徳様のお邸だよ。お前さんは長安から長い長い旅をしてここに着いた。覚えているね?」
蓮は小さく肯き、身を起こそうとした。
それを老婆が止める。
「急には無理だ。三日もお前さんは眠っていたんだ。ここに運ばれた時も、気がつきやしなかった」
そう言うと彼女は、歯の抜けた笑みを零した。
「さ、喉が渇いているだろう。まずはひと匙お飲み」
人肌の白湯を流されて、ようやく蓮は喉が渇いている事に気がついた。
それに伴って、少しずつ躰の感覚が戻って来る。
手足のだるさ。頭の痛み。胸の苦しみ……
辛い思いが一気に溢れて来て、双眸から思わず涙が零れた。
婆はそんな蓮に何も言わず、ただそっと髪を撫でた。
「様子はどうだ」
自室に戻った操は婆を召し、蓮の事を尋ねた。
「どうもないさ」
返って来た言葉に操の視線が上がる。
「目覚めたと聞いたが」
「一度目を覚まして、湯冷ましをふた匙み匙。また眠りの中さ」
「そんな調子で大丈夫なのか?」
「なあに、今度はそう長くは眠るまい。夜半には目を覚ますよ。まあ、しばらくは床を上げられまいがね」
「それほど悪いか」
「物言わぬ子は苦しみが内に溜まる。出してやらねばいずれ心が砕けよう」
操は、その言葉に少し考え込んだ。
「見舞うは、しばし待たれたが良いな」
「婆が言うなら待とう。時が来たら知らせてくれ」
「蓮の事ではない。お前様の事さ」
「孤が事?」
「あの子をどうするにせよ、婆はなーんも言わぬ。だが、どうなさるか決めてから会われたがいい」
「何が言いたいのだ。教えてくれ、婆」
請われた婆は何かを思うように、一度口を閉ざした。
「――お前様は情の人だ。言うても無駄とは思うが……。あの子は、そう長くは生きるまいよ」
胸が薄いのだと婆は言う。そういう子供は早世なのだと。
情を移せばその死に心を悼める。婆はそれを心配していた。
「……そうか」
操はそう言ったきり、しばし黙り込んだ。
「相解った。婆の言、心に留めよう」
操は婆を労うと、室を下がらせた。
婆の診立て通り、蓮はしばらくを牀で過ごした。
少年の鬱は色濃く、ろくに食事も摂れない状態が続いたが、それでも婆の手練手管で少しずつ心を緩めて行った。
やがて日中に牀を離れて過ごす時間を持つようになり、気分の良い日は髪を洗うなどしてうち寛いだが、まだ芯の熱が抜けきらず、陽の陰りから臥せる事も多かった。
そして、夜の訪れは蓮に悪夢を運んで来る。
熱にうなされ、見たくもない夢を見る浅い眠りが、蓮にはたまらなく苦痛だった。
夜半、ふらりと操が室に姿を見せた。
「どんな様子だ?」
言うなり、彼はひょいと牀を覗き込む。
「熱があるか」
乱れる少年の呼吸に、そっと額の汗を拭う。
その指先が、なめらかな白い頬を辿った。
涙の跡を見つめながら、操はしばらく思案にくれた。
「心を決めて来たのかい?」
後ろから婆が声を掛けた。
「いや。そろそろ婆もお疲れかと思うてな」
牀に腰を降ろした操を、ぎろりと婆が睨む。
「ふん。歳は取ってもこの婆、まだまだ堅固さ」
そう反され、操は破顔した。
「それに、これは手が罹らぬよ」
絞り直した布を額に置きながら、婆が呟くように言った。
「手が罹らぬか」
「ああ、哀しいくらいにな」
蓮は苦しくても辛くても、じっと牀に躰を丸めて耐えている。
むしろ泣いたほうが心を軽くすることもあるが、それも上手くは出来ないようだった。
時折、許容を越えたように涙が零れ、また眠りの中で蓮は泣く。
婆が傍らで慰め、諭しながら手を差し伸べるとようやくおずおずと縋るが、自ら救いを求める事はなかった。
蓮と謂う子供が過ごして来た日々を思い、ふたりはしばし黙り込んだ。
きしり…と、小さく牀が音を立てた。
蓮が苦しげに身を捩る。嫌な夢を見ているのだろうか。
「婆、蓮は何に魘されている」
「知らぬさ。語らぬ子だもの」
語らぬ。とは、物を言わぬ。からではない。
蓮とは術ではなく、自らを語る意を持たぬ。そういう子供だった。
悪夢に追われ、さ迷う白い手を操が受け止める。
掌で包み込んだそれに、彼はおもむろに接吻けた。
「婆。明日の夜来るよ」
そっと夜具に少年の腕を戻すと、曹孟徳はすらりと立ち上がった。