六十八.
『あなたは、ちゃんとここにいるよね?』
奇妙なそれに視線で問い返す。
『時々、触れていても実感がない……』
蓮は、自分の手をじっと見つめた。
『自分でも変だと思うのだけど……』
そう前置きして、蓮は途切れ度切れに文字を記した。
蓮には安邑へ向かっていた時の記憶は、かなり断片的のようだった。ふとしたきっかけでその時の事が蘇るが、ねじ伏せられる痛みや恐怖といった感覚だけで、映像として覚えているのは、黒い塊に押さえつけられている自分の空洞のような表情。本来ではありえない、自らを上から眺めている景色だった。
『それが夢の中では反転する』
宙に浮かぶ己に蔑むような表情で見下され、脳裏の中にあらゆる罵詈雑言が響き渡るのだと。
『怖くてたまらない』
蓮は、蒼褪めた表情でそっと操に触れた。
『本当は蓮はまだあそこにいて、あなたはそこから逃げるために創り出した夢なんじゃないか。そう思う時さえある』
涙を湛える瞳。操を映しながらも、遥か遠くを見ているような空虚。これまでも蓮は、時折そんな表情を浮かべていた。
操は自分に触れている蓮の手を取ると、かぷりと歯を立てた。
驚いて蓮が手を引く。
『痛いか? ちゃんと現実であろう?』
蓮の不安を吹き飛ばすように、笑う。
だからって噛まなくても……
愛らしい貌に浮かぶ困惑を抱き寄せ、操は続けた。
「そなたがあまりにつれないからだ。孤は今もこうしてぬくもりを感じておるぞ。なめらかな頬も、甘やかな髪の匂いも、狂おしいほど愛しいと思うておるに、それは孤だけなのか?」
冗談めかしてそんな事を言った操は、一度蓮を腕から解き放ち、その瞳を覗き込んだ。
「蓮。そなたは孤にすまないと思っているのではないか。あるいは、それを知れば、孤が離れて行くとでも思っているのか。どちらにせよ、孤に知られたくなかったのだな」
静かな声に、蓮は一度瞳を閉じた。
『本当は、もっと早く言わなければいけなかったんだ。蓮は、操に愛してもらえる資格なんて無いくらい穢れてて。でも、怖くて言えなかった。ごめんなさい……』
「お前は何も悪くないのに、なぜそう思う」
『蓮が悪くないなんて嘘だ。その時だって蓮が誘ったと言われて違うと思ったけれど、もしかしたらそうなのかもしれない。蓮は嫌だったけれど、殴られるのは怖かったし、逆らわずに従った方がいいって。その時だけじゃない。蓮はずっとそうだった。蓮は全てに嘘をついて、ただやり過ごして来た。罰を受けて当然なんだ』
「それのどこが悪い。だからお前は生き延びた。蓮は間違ってなどいない」
操は蓮に抗う事を教えた。けれどもそれは諸刃の剣である。先へと生を継続ぐために必要なそれは、同時にそれが叶わなかった過去を責め立て斬りつける。
少年の内なる強さと賢さは、ままならならぬ己への怒りへと結びついていた。
もしあの時こうしていれば。自分がもっと何か出来れば。そうすれば結果は違っていたかもしれない。仕打ちを恨むでも、不当な扱いに怒るでもなく、蓮はそうやって自分を責めているのだ。
けれど、蓮を生かして来たのは紛れもなくその強さであり賢さだ。操はそれに深く感謝していた。
「良く、生きていてくれたな」
万感の思いで抱きしめる。
蓮は物音や気配に非常に敏感で、近づく者があらば必ず操より先に気がつく。楽に秀でているから、もともと耳は良いのだろうが、常に脅威にさらされ神経を尖らせていた名残だろう。
この子の命など支配者の気持ちひとつで消し飛んだ。この細い首をへし折る事など造作もない。常にそこへ手を掛けられているような心持ちであっただろう。
生き物には必ず自衛本能がある。己を護るために取った行動を非難する権利など、いったい誰にあると言うのか。
蓮は少し戸惑ったように身を委ねていたが、そっと操の背に腕を廻した。
『……暖かい』
「現に感じられたか?」
こくりと肯く。
「良く話してくれたな。辛かっただろう」
頬に残る涙を拭いながら気遣う操に、蓮は小さく笑った。
『操が聞いてくれて嬉しい』
きれいに頤を上げて操を見上げる。その脣が名を呼んだ。
『楊将軍の話をしてもいい?』
「聞こう」
全てのきっかけは彼の死の知らせだった。蓮の心に未消化の想いがある事は、とうに察しがついていた。