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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
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六十六.

 行幸から離脱した李郭張の三人は、帝奪還へ向けて団結し、一行を襲った。

 帝側の軍勢は大敗して総崩れとなり、一行は迫り来る敵軍を足止めするために荷を捨て敗走した。財宝や衣服をばらまき、兵士達の気持ちを逸らして、その間に逃げようとしたのである。

 多くの犠牲を払いながらも、何とか曹陽まで逃げ延びる。

 この危機を、楊奉は昔なじみの将を呼び寄せる事で切り抜けた。

 黄巾の残党からなるその武装集団は、拠点としていた地名から俗に白波賊と呼ばれる。楊奉はその頭目だった男なのだ。

 しかし、李(カク)らも帝を手に入れる事を、そう簡単には諦めない。執拗な追撃を受けた一行は大混乱に陥った。

楊奉軍は最も危険な殿(しんがり)を務めていたから、蓮は本体から切り離された荷駄隊と共に先を急いでいた。それは、敗走の距離が延びるにつれ隊列が崩れ、次第に散り散りとなって行った。


『戦はとても怖かった』

 戦闘下の兵士達の興奮と、それに(しいた)げられる者達の恐怖は、操も実際に()るものである。その渦に蓮が巻き込まれたのだと思うと忍びなかった。

『兵に襲われた時、寿安が彼らを一喝した』

“痴れ者め! これは董太師の戀童ぞ。(きず)をつければその首飛ぶぞ!”

 その剣幕に兵士は(ひる)んだ。

『そして、蓮を将のもとへ連れて行けば褒美をもらえると懐柔した。彼らは言われた通りにしたけれど、寿安とはもう会えなかった』

 その宦官が、殺されたのかも逃げたのかも、(わか)らないようだ。

『そこは郭将軍の陣で、その時蓮は思った。少しでも気持ちを逸らせないだろうかと』

 少し脈略のない話し方ではあるが、操は妨げずにただ続きを待った。

『蓮にも少しづつだけど、李大司馬と郭将軍に追われている事や、楊将軍が天子様をお(まも)りしている事も解って来て、興義様に迷惑をかけないようにがんばったのだけれど、とても難しかった。だから……』

 蓮は一度手を止め、それから震える指先で文字を(つづ)った。

『郭将軍を誘った』

 蓮の頬を涙が伝った。

 あさましいこの身を非難されるだろうと。


 蓮は、郭汜を閨へと誘った。腕を廻し、甘え、彼の欲望へと火を点けた。以前、呂布に対してそうしろと言われたように。

 戦の度に多くの人が殺された。自分を(たす)けようとしてくれた楊奉や、その周りの人々も心配だったし、帝を(まも)りたいとも思った。

 自分には何も出来ない。だから、ひとときでも戦から郭汜を引き離したかった。

 何進に差し出される前に張譲は言った。遺された皇子を(たす)けるために、その男を篭絡するのだと。

“ただ陛下の旧恩に報いよ”

 (おとがい)に手をかけ持ち上げた蓮の(かお)を、冷たい表情で打ち眺めた後、王允は言った。

“呂奉先を(しず)めよ。それが国家安寧のためである”

 蓮は、それ以外の方法を知らなかった。

 初めて自ら引き入れた男に触れられ、嫌悪に身を震わせながら、蓮は奥底にある感情を()った。

 ずっとこうされる事が嫌で嫌でたまらなかった。その寵を受けることこそが最上の誉れとされた帝でさえ、蓮は嫌だった。

 けれど、それを認めてしまえば全てが壊れる。

 だから、叫び出しそうになる思いを、きつく(まなこ)を閉ざして封じ込めた。

 (からだ)の痛みのほうがずっといい。心を(えぐ)るような激痛に耐えながら、蓮は思った。


 郭汜を溺れさせるなど、造作もない事だった。彼は、時を忘れて蓮のもとに入り浸った。

 旅の疲れで体調を崩していた蓮にとっては、体力的にも限界だった。けれど、この苦痛が長引けば長引くほど、時が稼げる。戦で四散した兵も将の元に戻るだろう。安全な所へ逃れ、陣を立て直す事も出来る。

 郭汜が動かなければ李傕はその理由を知ろうとする。蓮がここにいると判れば、郭汜を弟分としてどこかで見下している李傕は不満を抱く。

 怒りの矛先は蓮に向くかもしれない。それでも、ふたりが共に攻め寄せなければ兵力は半減する。彼らが仲たがいしてくれればそれで良かった。


『蓮の事が伝わると、大司馬は乗り込んで来て、ふたりは言い争った』

 李傕は唐姫と引き換えに朝廷から蓮を与えられた経緯を上げて所有権を主張し、郭汜は蓮が自分を望んだのだと反論した。

 同意を求められても(うなず)かない蓮に、郭汜は当然(いか)り、李傕は郭汜を偽り者だと(ののし)った。

『蓮は、きっとどちらかに殺されるのだろうと思った。けれど、荷と一緒に返す事になった』

 帝との和議である。

 李傕は帝からの使者を受け入れ、戦で捕らえた公卿や女官達を送り出した。奪い取った輿や御物もこの時一緒に返された。

「良くお前を手放したな」

『蓮は(わざわい)の元だから』

 蓮は、力なく(わら)った。

 心のどこかで、どちらかが殺してくれる事を望んでいた。そうすれば全てを終りに出来る。

 けれど李傕は、蓮を手にかければ太師に(たた)られる。操なら鼻で笑うだろう事を、本気で怖れる男だった。郭汜にとっても董卓は、死してなお逆らえぬ絶対君主である。兄貴分の李傕がそんな懸念を口にすれば、心穏やかではいられない。

 殺す踏ん切りもつかず、そのまま置けば争いの火種。苦慮した彼らが例によって占いにまで頼って選択したのは、厄介払いだった。


『これ以上帝を追えば東の将と争うことになる。太師でさえ西に拠点を移した事を忘れてはいけないと言っていた』

 敗走した帝の一行は陝に陣を構えたが、追い詰められ、河を渡って大陽に逃れた。

 (すが)りつく朝臣や女官を振り捨て、河を渡ったのは防衛のためである。河を挟んでの戦は攻め手が不利となる。李傕は岸から矢を射かけるに留まり、一旦兵を引いた。

 それでも彼は次を考えていた。帝を逃すことはそのまま自身の転落につながる。執着するのは当然だった。

 ところが張済はもはや勝機はないとあっさり離脱し、郭汜も陣に籠ったまま動かない。その間も一行は大地を彷徨(さまよ)い続け、やがて安邑へと辿(たど)り着く。

 年が明けると帝は郊祀(こうし)を執り行ない、建安へと改元。大赦が発令され、李傕にも和議を求める使者が遣わされた。

 安邑は白波の将達の勢力圏に近い。それを承知で無理に兵を進めたところで、一行がさらに東に逃げれば今度は別の勢力とぶつかる事になる。

 所詮は董卓残党の身内争いと傍観していた諸侯も、西涼の兵が所領に近づけば黙ってはいない。

 この期に及んで言い争っている彼らの行く末は見えている。帝側から持ち掛けられている内に和議を結ぶのが、永らえるための最善の選択だった。

 自ら思い至ったにせよ、誰かに諭されたにせよ、それを受け入れる位の分別は、まだ残っていたのである。

『和議を受け入れる以上、禁裏のモノは禁裏へ返せと』

 禁裏のモノ。

 蓮を庇護している操に対しても、そうした批判は届く。

“曹操は禁中のモノを(わたくし)としている” 

 捨て置けと、操は取り合わないが、たかが枕童の為にその評を()とすのかと、悔し気に言う臣もある。

 操とて、蓮とこうして関わることなく、ただ外から眺めているだけであったなら、同じように思っただろう。

 たかが。枕童ごとき。と……。

 結局、枕童に対する認識など、そういったものなのだ。

 そして、蓮自身もやはり(とら)われている。

 帝のため。王朝のため。蓮はそう言い聞かされて育ったはずだ。

 だから、使役するばかりで何も与えてくれない漢室のために、その身を捨てて来た。

 操も漢の臣である。それでも馬鹿げていると思った。王朝とは、帝とは、それほどまでに尊いものなのかと。

『だけど、それは(つら)い旅の始まりだった』

 閉じた双眸から幾筋も涙が伝わり、砕けた。

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