六十五.
『最初、蓮はなぜそこに連れて来られたのかもわからなかった。ただ、唐姫様が心配だった』
「唐姫? ……弘農王妃の事か?」
肯く蓮に、なるほどと操は思った。
唐姫は、董卓によって廃された先の帝・劉辯の妃だった女性である。辯が董卓に毒殺された後、彼女は郷里で暮らしていたが、それは李傕らが壮絶な奪略を行った潁川の地であった。
交通の要衝であった潁川は、しばしば戦禍に見舞われた土地ではあったが、彼らの行いには容赦がなく、物は奪われ、街は焼かれ、男は弑され、女は連れ去られた。
唐姫も例外ではなく、この時に奪い去られ、李傕の側に置かれた。
帝の妃だった者を妾にされては王朝も立つ瀬がない。その扱いに苦慮していた事は想像がつく。
眩むほどの美童を思いのままに着飾らせ、腕に抱いていた董卓は、まさに天下人の風格だった。ただ一度見たきりの操にさえ強烈に残っているその印象は、董卓の部下達にとってどれほど目映いものだったか。
その蓮ならば、交換条件として不足はなかっただろう。
李傕のもとから救い出された唐姫は、弘農王妃の位を与えられ、今も王朝の庇護下にあった。
しかし、よくもまあモノでも与えるように蓮を使うものである。
董卓を殺した呂布に、それを追った李傕に、そして操へもまた投げるようにして蓮は与えられた。
李傕を語る際に浮かべた表情の陰りを、操は見逃さなかった。
おそらくは、意に染まぬ事も様々に強いられたであろう日々を、蓮はただじっと耐えていた。
少帝の妃と引き換えである事を知っていたのだ。
――妙だな。
ふと沸き起こった違和に、操は思考を巡らせた。
王允の元にあった蓮が、長安を制圧した李傕にそのまま捕らわれたとばかり聞いていたが、唐姫の身代わりであったなら、李傕は自ら蓮を見つけたのではなく、朝廷側から提示された事になる。
蓮と朝廷側との接点にも、蓮がいた場所にも疑問が生じる。
蓮は長櫃と謂う言葉を使った。
それは、秘かに運び出すと同時に、秘密裏に何処かへ運び入れた可能性をも示唆していた。
「お前を長櫃に入れたのは誰だ」
『寿安』
「寿安?」
『寿春の安だからと相国様が』
綽名ということか。そのまま通称として使っていたのかもしれない。安は姓と名のどちらだろうか。
「それは何者だ」
『閹官』
「宦官? 宮中の者か?」
宮中で生まれ育った蓮の周りには、当然宦官達がいたはずである。そうした者であろうか。
『初めて会ったのは相国様の処だけれど、宮中の事を良く知っていたからそうかもしれない』
であれば、董卓が蓮の世話をさせていた宦官か。宮中にいたのが本当なら、何かしらの人脈を持っていた可能性もある。
「その者も共に李傕の処へ?」
操の問いに蓮が肯く。
『楊将軍の処へ連れて行ったのも寿安』
それは、何かしらの取引があったことを示している。
どちらからどのように持ち掛けられたのかは判らぬが、双方の合意点が蓮の救済だったのはおおむね間違いないだろう。
李傕殺害の計画がどういったものであれ、傍に置かれる蓮が巻き込まれる危険は皆無ではない。その前に連れ出そうと考えたのは想像がつく。
ただ、当事者である蓮に、全く説明や相談のない様子が気にかかる。寿安と謂う宦官がどういった意図で動いていたにせよ、その扱いによっては、この子の苦労は操の予想を上回る事になる。
『旅が始まると、寿安はこんなはずじゃなかったと良く言っていた』
とは言え、李傕も兵を率いて帝を追っているから、どのみち生活は一変していただろう。
もとより、後悔したところで李傕の元へ戻れるはずもない。蓮を連れ出し恨みを買っていたであろう宦官は、むしろ楊奉を頼りと身の安全を図るしかなかった。
寿安は、ぶつぶつと文句を言いながらも、蓮と旅を続けた。
長安を出た帝の後ろには、付き従う文官女官の長い列が続いた。
ただでさえ旅慣れぬ足弱を連れた行幸は遅々として進まず、起こるのは諍い事ばかりだった。
初秋に出発した一行は覇陵に入り、内輪揉めと離叛と戦を繰り返しながら、新豊、華陰と旅を続け、ようやく弘農に到着したのは寒さ厳しき十一月だった。
冬の最中の旅は、さぞ辛かっただろうと操が問うと、蓮は手を取って記した。
『蓮は病がちだった』
そうであろうと操は頷く。
冬の行軍は大の男でも時に辛いものだ。宮中で生まれ育ち、権力者のもとで贅に包まれ暮らしていた蓮に、耐えられる環境ではない。
『楊将軍はあまり話さない人で、最初は何が起きているのか良くわからなかった。どこに向かっているのかも知らないまま輌に揺られて、怒鳴り声が聞こえたり、戦も度度だったし、怖いことばかりだった』
環境の急激な変化と旅の疲れ。そして、心理的な負担も大きかったのだろう。蓮は次第に体調を崩す事が多くなった。
『蓮は、頭が痛かったり、お腹が痛かったりしたけれど、それを伝えられなかったし、ただ将軍を困らせたりイライラさせていた』
楊奉は、ある意味義憤の念から蓮を連れ出した。
彼は、李傕のもとから蓮を救い出したつもりだったが、蓮にとって楊奉は未知の人物である。特別な心情があるはずもない。その温度差に彼が気付いたのは、間もなくの事だった。
また、陣中での暮らしは何かと制約をもたらす。市中戦のただなかであろうと、李邸での暮らしの方が物理的に豊かだったのは確かである。
楊奉は、己の力量のなさを突きつけられた思いだっただろう。
ただ脅えるばかりの蓮に戸惑い、思い通りにならない現実に苛立ち、一時は蓮に手を上げさえした。
『それでも興義様は寝込んでしまった蓮を見捨てず看てくれた』
一行を護り、揉め事を押さえ、敵と戦う激務の中、病の苦しみを少しでも和らげようと楊奉は心を砕いた。
そんな彼に蓮が少しずつ打ち解け、慣れない生活にも適応しようと努めていた頃、それは起こった。