六十四.
『天子様が李将軍の処に移されたと知って、ようやく蓮も大変な事が起きているのだと気がついた』
李傕が同士の樊稠を呼び寄せ、殺害したのが発端だった。
危機を感じた郭汜は帝を手中に収めようと計ったが、李傕が先手を打って宮中に兵を入れ、帝を略奪した。郭汜側は仲裁に訪れた朝臣を人質とし、彼らは市中戦を繰り広げた。
歳若い帝が皇后を立てたのはそんな最中の事であり、場所は捕らわれていた李邸という有り様であった。
『李将軍は郭将軍と争うようになると、イライラしている事が多くなった。すぐ近くまで兵が攻め寄せたし、天子様の事も心配だった』
間近に諍いを感じる日々は、とうてい心の休まるものではなかった。
ささいな事で声を荒げるようになった李傕は、手当たり次第に物を蹴り飛ばし投げつける。さすがに蓮に向かって行うことはなかったが、それにより落下したり倒れたりといった二次災害に、蓮が巻き込まれる事は少なくなかった。巨大な燭台が倒れ掛かり、あわやの恐怖も味わった。咄嗟に近くに居た者が蓮を突き飛ばし、衣に散った焔を消し止めてくれなかったら、油と炎をまともに浴びて、大惨事となっていただろう。
『楊将軍は……。当事はまだ興義将軍ではなかったけれど、そう呼ぶね。彼は李将軍のもとにいたけれど別れて、その時に蓮を連れて行った』
そうだったのかと操は思う。
蓮が李邸に在った事も、行幸の間は楊奉が連れていた事も、操の耳には届いていた。だが、どうして楊奉が伴うようになったかまでは知らなかったのだ。
調べられなかったわけではない。
操の下には優秀な諜報部隊も組織されており、その気になれば、蓮が語るより詳細なそれを知る事も可能だった。
だが、操はそれを行おうとは思わない。過ぎ去った時間に、さほどの興味は持っていない。蓮の遍歴とて、本人が思っているほど操は気に懸けてはいなかった。
とは言え、それを告げたところで、真の意味では伝わるまい。
そして、操がどう思っているかより、蓮がそれと向き合い、語るために整理し言葉を選ぶ。その過程こそが必要だと考えていた。
だから、蓮が語る手を止めて考え込むのを、操は決して妨げない。時には話を導きながら、蓮が自分で何かしらの答えを引き出すその時まで、操は付き合うつもりだった。
李傕の旗下にあった楊奉は、帝の廷臣達の懐柔により李傕の殺害を計画。事が洩れて離叛した。
この脱離は李傕の勢力に大きな打撃を与える。楊奉が率いていた兵は精鋭で知られ、李傕軍の主力部隊のひとつであったからだ。
激戦の中、李邸にまで郭汜の兵が及んだことがあったが、それを退け、危うい李傕を救ったのも楊奉だった。
勇猛果敢で義に篤い男だったが、それゆえに李傕は彼を顧みなかった。よもや、離叛するとは思ってもみなかったのだろう。
李傕は神託を全ての事柄に優先していた。戦に勝利しても、祈祷を行った巫覡の手柄とされては、実際に命を懸けて戦っている兵士達はたまらない。
彼らの文字通り血を流す苦労も、やるせない思いも、怒りも、楊奉は間近で見つめて来た。
そしてそれは、己自身の痛みでもあった。
兵士達の不満が積もり積もっていたところへ今上帝の苦境を説かれ、また楊奉は蓮という存在を認識った。
李傕に捕らわれて暮らす美しい花を、彼は哀しいと思った。
ぼんやりと空を眺めていた儚げな横顔が、残像となって心の中で揺れた。
やがて李傕と対峙する道を選んだ楊奉は、軍を率い、長安の郊外へと布陣した。
その際に、李傕のもとから連れ出す事に成功した蓮も伴っている。
それは、彼にとっても大きな賭けだった。
これをきっかけに李傕と郭汜が和解し、矛先を楊奉へと向ければ、彼もまた無傷では済まない。蓮を連れて来たことが、その危険性を高めていたのも楊奉は承知していた。
しかし、李・郭は変わらず反目し続け、その勢力は衰えて行った。
彼らは、張済と謂う第三の勢力を迎えるまで、和睦を受け入れることが出来なかったのである。
李・郭が和したことで弘農への行幸が決まり、彼らは共に帝に随行した。
しかし、その平穏は、一時的なものに過ぎなかった。