六十三.
長安は戦場と化した。
一時は帝の簾中に矢が及ぶほどの激戦となり、人々も巻き込まれ、骸が街を埋めた。
互いを消耗するだけの泥仕合を仲裁するために、同じく董卓の部下であった張済がかつぎ出されて来た。その説得で李傕と郭汜は和睦を受け入れ、それぞれが人質としていた者をようやく解放した。
停戦は成ったが、宮殿は焼き払われ、街は荒廃していた。張済の提案を受け入れ、帝は弘農への行幸を決める。
興平二年七月甲子。
帝の一行は出発した。
李傕や郭汜らもその護衛に就いたが、すぐに内輪もめが起こった。
まず食料配給を巡り、李傕が離れて池陽に屯した。
張済の勢力圏へ帝を移す事は、己の不利と察した郭汜は高陵への行幸を欲し、弘農行きを主張する者達との争いとなった。
帝は食を断つほどの強い意志を示され、弘農行きを主張。
争いの末に郭汜は南山へと退いたが、十月には再び一行を襲った。
帝は董承らに連れられて、楊奉の陣へと走った。
楊奉が郭汜を破り、安堵したのも束の間、今度は楊定と段猥の争いが起きた。
それを知った李傕と郭汜は併せて兵を進め、戦いの中楊定は単騎落ちて行った。
張済もまた董承らと合わず、一行を離れて李・郭と和解した。
十一月。
一行は弘農へ着いたものの、李郭張の連合軍と大戦となり、敗れた。
曹陽へ逃れた一行は、河東の白波谷から武装勢力を呼び寄せる。
彼らの協力で一度は戦に勝ったものの、まもなく白波の将達が反する素振りを見せ、不仲のまま李傕らの軍を迎えた一行は大敗した。
死んだ者、略奪されたものは数知れず、帝は数人を連れて河を渡り、逃れる有り様だった。
河を渡れなかった者は、全て死ぬか捕らえられるかした。
後に帝は李傕らと和解し、彼らに捕らわれていた人々や荷は返されたが、行方知れずの者も多かった。
帝は安邑に入り、来朝する者もあるなど一時的な平和が訪れたかに見えた。
だが、雒陽行幸を進める朝臣達と楊奉らの意見はまとまらず、白波賊の中でも争いが始まっていた。
夏。帝は詔を下し、雒陽への行幸を決する。
請われて楊奉らも従った。
一行が雒陽へ着いたのは建安元年七月甲子。
長安を出発して、ちょうど一年であった。
以上がおおよその一行の動きであるが、蓮はいったい何をどこまで語るのだろうか。
操は静かにそれを見守る。
蓮はしばらく何かを思案していたが、やがて操の手を取り、文字を綴った。