五.
一行は許へ向けて出立し、道に長く輌が続いた。
そのひとつを与えられ、蓮もそれに同行したが、運命に弄ばれて来た数年の疲弊は、拭い難いものとして蓮の内にあった。
食もほとんど進まず、夢にうなされる日々が続く。
輌に揺られていると辛い記憶ばかりが蘇り、時折意識が混同して、何が現実なのか解らなくなった。
旅はいつも苛酷だった。
戦禍に追われ、男達の間を転々としながら、蓮は流浪して来た。
今こうして、満たされた食事と、暖かな衣と、独り眠れる幕を与えられると、堅く瞳を閉ざしてやり過ごして来た全てが、一気に襲い掛かって来るよう気がした。
曹操と謂うあの男に帝が庇護されたのを知った時、蓮はこの長い旅がようやく終わるのだと思った。
自らの事も終わりにしようと思った。
もう解放されたかった。
だが、その望みは虚しく断たれた。
蓮の周りには彼の遣わした従者が侍り、独りになろうとしても何者かが常に付き従う気配を感じる。
河面を見つめる背後に彼があったのも、偶然などではなくその者が知らせたのだろう。
楽を聴かせよ。
彼は言った。
それは、自分に仕えよという事なのか。
この後待っているのがどんな日々であろうとも、蓮にはもうそれを思う気力もなかった。
輌の酔いも手伝って、ひどく気分が悪い。
蓮の様子を見るに見かねたのだろう。従者が輌の進みを止めた。
ふらふらとそれを降りた蓮は、幾歩も行かぬうちにその場に崩れ落ちてしまった。
吐きたくても、すでに躰に残っているものなど何もなかった。
苦しげに浅い呼吸を繰り返すその姿に、薬師を求めて従者が駆け出した。
「いかがした?」
列を離れて停まる輌を不審に思ったのだろう。馬に乗った男が近付いて来た。
「あ、郭祭酒」
警護の長は彼を見知っていたらしく、そう声を上げると馬を降り、礼を取った。祭酒となれば君直属の重臣である。周囲の者も慌ててそれに倣った。
そんな彼らに
「堅苦しいのはいいよ」
と手を振り、男は馬を降りた。
状況を説明しようと従者が口を開くより早く、彼は全てを察した様子で、蓮の傍らにその片膝を着いた。
「気分が悪いのか。少し横になったほうがいい」
自ら蓮を抱き上げると、大樹の作り出す木蔭にそっと横たえ、従者が慌てて用意した湿り布で冷たい汗の滲む額を押さえる。
「ここまで来れば許はもう目の前。しばらく休んで後詰の隊と行けばいい」
心地良い響きの声だった。
こわばっていた四肢が、静かに緩んで行くような気がした。
「さあ、ひとくち」
男が蓮を支えて何かを含ませた。
言われるままに口にすると、何やらとろりと甘かった。
「大丈夫だよ。少し眠りなさい」
不安に瞳を向けると、彼はにこりと笑い、優しく囁いた。
蓮はどこか穏やかな気持ちに包まれて、そっと瞳を閉じた。
眠りの中でも蓮は、その若い男に抱かれているような気がした。
ふわふわと心地良く、暖かな腕だった。
同時に、ゆらゆらと河面に揺られているようにも思えた。
このまま河を下って行くと何があるのだろう。
光の先に手を伸ばすと、急に風が大きく動いた。
飲み込まれると思った瞬間、蓮は眠りから覚めていた。