五十八.
「蓮は、孤を知っていたのだな」
董卓の邸の回廊で遇った際、じっと自分に視線を留めていた蓮を操は思い返す。
「そなた、孤を援けてくれたのであろう?」
蓮は小さく笑うばかりで答えなかったが、否定もしなかった。
おそらく蓮は、操が宴に招かれたのを幸いに、邸内を偵察していたのを見抜いたのだろう。自分を捜して家人がやって来るのを察し、彼らのもとへ自ら歩を進めた。
操がそこにいることを、知らせまいとしたのだ。
操は、あの時の蓮の行動を少々不可解に思っていたのだが、大混乱の宮中で遭っていたのなら話は解る。蓮は、ささやかな恩返しのつもりだったのだろう。
「あの時、そなたは逃げようとしていたのではないか?」
蓮の瞳がさ迷った。
董卓の寵愛を受けていた蓮が囲われていたのは、もっと奥まった一角であったはずだ。いくら操でも、蓮が普段過ごしていた邸の奥までは入り込めない。
あの時蓮は、独り表に出て来ていたのである。
『蓮も迷子だった』
刻まれた文字に、操は察した様子で頷いた。
宴で董卓が不在であり、邸内がざわついていた隙を見て、蓮は室を抜け出した。だが、邸の構造をまるで知らない蓮は、たちまち迷ってしまい、出口を見つけることさえ叶わなかった。
「孤と逢うたばかりに、せっかくの機会を逃してしまったのだな」
『それは違う。蓮はもう歩けなかった』
背に負っていた傷がじくじくと痛み、不安と絶望に打ちのめされ、その場に踞るしかなかったのだ。
蓮はそれまであまり痛みを経験していなかった。
帝の閨に召される時は、それは念入りに下準備をされる。
何進の時もそうだった。
だが、董卓に囲われてからは、惨く捩じ込まれる痛みも知ったし、打たれる恐怖も味わった。
蓮は、それに耐えられなかったのだ。
『逃げるというのが、どういう事なのかも良く解っていなかった。室を出て来たものの、結局何も出来なかった。でも、あなたが居て驚いた』
蓮はそのまま室へ戻されたが、それで満足だと思った。
しかし、すぐに宴へと連れ出され、蓮は三度操と会した。
『操の舞はとっても綺麗だった』
蓮はそれを思い起こし、うっとりと瞳を閉じた。
「そなたの演奏だから、あれほど舞えたのさ」
『蓮も操が舞ったらいつもより良い音が出た。救けてくれたのに、ずっとお礼が言えなかった』
「あれは救けたうちに入らぬよ」
笑う操に蓮が首を振る。
『誰も、蓮が痛い事を思ってくれなかった』
「そうだったな。あの傷は董卓に打たれたのか?」
『本当に声ひとつ出ぬのかと……』
「惨いことを」
やるせなさに首を振る操に蓮は差し俯いたが、気を取り直したように文字を綴った。
『操もとっても意地悪だ』
にこりと笑う。
「それはすまぬな」
操は苦笑うしかない。
『蓮はあなたの事がずっと好きだった。でも、それに気付くのに、随分時間が掛かってしまった。蓮は何をするのも鈍間なのだ』
「鈍間ということもないだろう?」
『蓮は良くそう言われたよ。いつもみんなに遅れたし、舞の才能もなくて落第した。出来ない事のほうが多くて、だから弦楽のおけいこは、たくさんがんばった』
「ふーむ。そなた達の教育も、いろいろ厳しいものなのだな」
蓮の楽の才は、天賦の部分も確かにあるが、地道な努力の賜物でもあったようだ。
鈍間とまで言われようと、コツコツと何かをやり遂げようとするこの子は、案外と芯が強いのかもしれない。
『蓮より先に相国様が気がついた。あの人は操に嫉妬していた』
「董卓が?」
操には意外な話だった。
蓮も、今になってやっとその気持ちを考える事が出来るようになった。
優雅に舞うこの人を、自分はどんな瞳で追っていたのだろう。
そして、絡み合う楽と舞に含まれるものを、その慧眼は見抜いていた。
すでに老いを自覚し始めていたであろう男に、それはどれほどの焦りを与えたか。
董卓は残忍な男だったが、蓮を深く愛した人でもあった。
ただ、当時の蓮は、董卓の気持ちも、操への想いも、解することが出来なかった。
だから、あの宴の席でも、見せつけるように自分を舐る董卓が、たまらなく嫌だった。