五十六.
「張譲達に使われたか」
操は何も言わなくても解っているのだろう。
蓮はただ頷いた。
『大将軍が亡くなったのは蓮のせいだ』
「蓮は、宦官達の計画を知っていたのか?」
蓮は涙を浮かべて首を振る。
大将軍と呼ばれたその男が何者であったかも、全て後から知ったのだ。
「それでは手を貸した事にもならぬ。被害者はそなたのほうではないか」
『でも、あの後たくさん殺された』
「……ああ、そうか。あの時、そなたも宮中にいたのだな」
何進が殺されたと知ると、袁紹は宮中に兵を入れ、宦官達を皆殺しにした。
本来、何進達外戚と、官僚階級である士大夫達は対立していたのだが、対宦官と謂う立場で合意し、この時は協力関係にあったのだ。
宮中は大混乱に陥った。
その時殺された者は、二千人とも言われている。罪なき者も、宦官ではない者も、宮女達も、数多の者が犠牲となった。
操の祖父は宦官であったが、父は金で買ったとはいえ、一時太尉と謂う高位にあった。操自身も士大夫であったから、曹家は一応清流派に属していた。
清流とは、士大夫達が宦官を濁流と蔑み、自分達は清流であると称した呼び方である。対して、宦官側は士大夫を党人と悪意を込めて呼んだ。
官職を金で売り出したのは霊帝である。売官は、帝が私財を得るために編み出した錬金術だった。
帝にしてそれであるから、王朝の腐敗は凄まじく、操はそれと真向い上奏もしたが、結局、独りが声を上げたところで何も変わらなかった。
操は一時、官界から身を引いた。
隠遁生活を送っていた彼が中央に呼び戻されたのは、霊帝が崩御する前年のことだった。
その時の官位が典軍校尉。軍事強化を目的に新設された西園八校尉の要職である。名門の子、袁紹もそのひとりであった。
その袁紹と、彼と同族の袁術が中心となり、宦官の大粛清は決行された。
あの日の惨状を思い起こし、操は思わず頭を振った。
「さぞ怖かったであろうな。すまなかった」
『あなたは反対していた』
「なぜ解る?」
操に見つめられ、蓮は涙の残る貌で笑う。
「そなた。何か知っておるな」
ナイショ。
悪戯っぽい笑みが返った。
確かに操は、宮中へ兵を入れることも、宦官を皆殺しにすることも反対だった。
十常侍ら、罪ある者を除けば済むことではないか。
宦官とひとくちに言っても、その身分は様々である。下級の者など使役されるばかりで、甘い汁を吸えたのは、極一部の高級宦官だけなのだ。
正論ではあろうが、宦官こそ諸悪の根源と憎しみで凝り固まっていた彼らは聞き入れなかった。根こそぎ始末しなければ、禍は繰り返されると言うのである。
あげくに、宦官の孫だから操は彼らに同情的なのだと非難された。
男子禁制の後宮にて雑務を行うために置かれ、人としての扱いもされず、教養も要らぬとさえ言われた宦官だが、深く宮廷内部に入り込める立場を足台に、次第に力を持つようになった。
帝にとっては、最も傍に居るのが身の回りの世話をする宦官であり、どうしても親兄弟より親密な感情を抱くようになる。
幼くして帝が位に即くと外戚が権力を握ることになるが、やがて帝が成人すればそれは何かと邪魔な存在となる。
その時帝が頼りにしたのが近しい宦官達であり、彼らを使って煩い外戚を排除しようとの動きが起こる。
それが成ると、今度は宦官達が巨大な権力を手に入れ、その一族が官職に就いて民衆を搾取し、財を築いた。
帝が代われば外戚も換わるが、宦官はそのまま宮中に居続ける。それも強みだった。
やがて彼らは養子を取ることを認められ、財や爵位を後世に繋ぐことが出来るようになった。
操の祖父もそうして嵩を夏侯家から迎え、莫大な財と人脈を残した。
ただ、騰の名誉のために言い添えれば、彼は公正で慎み深い人と知られ、葬儀には清流派の士大夫達も多く訪れ、その死を嘆いた。
外戚と宦官の熾烈な権力争いに対し、官僚階級の者達も何度か巻き返しを計ったが、計画が洩れ、一掃された事件も起きている。
漢王朝末期は、その三つ巴の争いに始終した。
その乱れが、黄巾の乱と呼ばれる民衆蜂起の大乱へと繋がる。それは、搾取され、虐げられ続けた人々の叫びであった。
戦乱は武力の台頭を呼ぶ。
軍閥は地方勢力を拡大し、世の中は群雄割拠の時代を迎えたのである。
話を戻す。
宮中で宦官の大虐殺が行われたのは光熹元年八月庚牛。
霊帝と諡号された劉宏は、その四月に崩御したばかりだった。