五十二.
かたり。と小さな音がした。
蓮が目覚めたのだと解り、ふたりは立ち上がる。
隣室へ行くと、開けはねた扉の前で、蓮が佇んでいた。
「目が覚めたか」
操の問い掛けにも、蓮は反応を示さない。
その瞳はぼんやりと、真っ暗な外へ向けられていた。
「何を見ている」
ゆっくりと、細い腕が宙を指した。
だが、いくら瞳を凝らしても、その先には闇しかない。
操は困惑して婆を振り返る。
婆もただ首を振った。
「蓮。躰が冷える。中へお入り」
操がそっと肩を抱くと、蓮は静かに室内へと歩を進めた。
その足が、がくりと崩れる。
震える両手が口を塞いだが、堰止められない嗚咽が零れた。
操はその傍らに屈むと、そっと蓮を抱き締めた。
婆を瞳で制し、小さく頷く。
――決意なされた。
婆は後ろ髪を引かれながら、そっと室を辞した。
「どうした。孤はここに居るよ」
静かな呼び掛けに、蓮が小さく頷いた。
伝わるぬくもりに少しは人心地が着いたのだろうか。
蓮は操を見上げて微笑むと、そっと胸に頬を寄せた。
冬の夜気に冷たく凍える小さな躰を暖めながら、操は牀の帳の中へと蓮を導いた。
「寒うはないか?」
しっかりと帳を閉じ、夜具で包みながら、それでも操は尋ねる。
蓮は笑みを見せたが、その貌は青白く、指先は凍るように冷たかった。
操は蓮の白い手を取って暖めながら、涙の残る黒燿を覗き込む。
「蓮。庭に何を見た。楊奉の首でも見えたか」
ぴくり。と蓮の肩が動く。
だが、返って来たのは否定だった。
蓮はただ首を振り、操の視線を避けるように貌を背けた。
「李傕や郭汜も知っているな」
肯定は示さないが、やがて蓮の瞳から涙が溢れた。
「……奴等も、そなたを抱いたのだな」
蓮は涙の中で脣を噛み締め、ようやく頷いた。
小さく嗚咽が漏れる。
「蓮。孤に全て話してみぬか」
蓮はその言葉に貌を上げたが、脅えて首を振った。
話せるわけがない。
貌に浮かんだそれを承知で操は重ねる。
「大丈夫だ。孤は全て受け止める。吐き出さねば蓮の心は砕けてしまうぞ。そなたはもう、限界であろうが」
それでも蓮は嫌がって、牀から逃げ出そうとさえする。
その両肩を掴み、操は自らの正面に蓮を据えた。
「良いか。良く聞くのだ。孤はおおよその事は知っている。知っていてそなたを愛したのだ。何も怖がる事はない。頼むから、孤を信じてくれ」
蓮は瞳を見開いて脣を震わせた。
涙が次々と零れ落ちる。
否定するように、その首が振られた。
否……
戦慄く脣が言葉を象取る。
嫌……
蓮は全てを拒絶するように耳を塞ぎ、操から躰を逸らして泣き伏した。
調べる事など簡単だろう。
蓮を知る者は他にもいる。
彼がそれを行わないと思っていたわけではない。
いや、操が全て知っている事をも解っていたのだ。
それでも蓮は隠したかった。
この人にだけは知られたくない。
全てを消し去ってしまいたい。
それも、操を愛して初めて気付いた感情だった。
操は涙に咽ぶ蓮を抱き起こすと、その胸に包み込んだ。
「すまぬ蓮。そう言えばそなたが傷つくのは解っていた。だが、蓮は孤の痛みを掬むであろう? この操の代わりに泣いてくれるが、それではそなたの痛みは何処へ行くのだ? 孤はな、蓮の痛みを知りたい。いや、代わりたいのだ。そなたのように人の痛みを掬み、癒せるのならどんなに良いだろう。だが、孤にはそれは出来ぬ。それは、蓮にしか出来ぬ事なのだ」
操は泣いていた。
しっかりと蓮を抱き締めながら、その肩が震えていた。
泣かないで。
操が泣くと蓮は哀しい。
自分が哀しいのより、もっと心が痛いもの……
蓮は自らも涙を零しながら、操にその腕を廻した。
「それ、まただ。そなたはそうやって瞬く間に孤を癒す。孤はそれをどうやって返せば良いのだ」
蓮は首を振った。
あなたが与えてくれたものは限りない。
自分こそ、どうやってその恩を返せば良いのか……
それを考えると途方に暮れてしまうほど、蓮は感謝していた。
涙を拭って躰を離すと、蓮は操の掌に文字を綴った。
『あなたが居てくれれば』
蓮は涙の残る瞳で微笑む。
ただそれだけで良いのだ。
蓮はそれ以上何も望まない。
「そうか。だが、孤はそなたを置いて戦へ行く。悪い男だな」
間もなく彼は戦へ行くのだ。
蓮はそれも知っている。
無理にここで過ごす時間を作ってくれたのは、その理由もあっての事だろう。
『対酒歌太平時』
そう綴った蓮が操を見上げ、笑った。
「ん? そうだな」
それは、操の創った一遍の詩の冒頭だった。
“酒を酌み交わし、太平の時を謳歌しよう”
そう始まるその詩は、彼の目指す平和で豊かな世の中を描く。
それを成すために、彼は戦場へと馬を駆るのだ。
蓮は、それも良く解っていた。
「そんな世の中であれば、そなたも苦労しなかったであろうにな」
蓮は首を振り、すっと操の胸に頬を寄せた。
『それではあなたに逢えなかった』
刻まれた文字に操は頷く。
「そうか。そうだったな。蓮、そなたは宮中で育ったのだな」
腕の中で、ゆっくりと少年が頷いた。