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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
53/138

五十二.

 かたり。と小さな音がした。

 蓮が目覚めたのだと解り、ふたりは立ち上がる。

 隣室へ行くと、開けはねた扉の前で、蓮が(たたず)んでいた。

「目が覚めたか」

 操の問い掛けにも、蓮は反応を示さない。

 その瞳はぼんやりと、真っ暗な外へ向けられていた。

「何を見ている」

 ゆっくりと、細い腕が宙を指した。

 だが、いくら瞳を凝らしても、その先には闇しかない。

 操は困惑して婆を振り返る。

 婆もただ首を振った。

「蓮。(からだ)が冷える。中へお入り」

 操がそっと肩を抱くと、蓮は静かに室内へと歩を進めた。

 その足が、がくりと崩れる。

 震える両手が口を塞いだが、(せき)止められない嗚咽が(こぼ)れた。

 操はその傍らに(かが)むと、そっと蓮を抱き締めた。

 婆を瞳で制し、小さく(うなず)く。

 ――決意なされた。

 婆は後ろ髪を引かれながら、そっと室を辞した。

    

「どうした。(わし)はここに居るよ」

 静かな呼び掛けに、蓮が小さく頷いた。

 伝わるぬくもりに少しは人心地が着いたのだろうか。

 蓮は操を見上げて微笑(ほほえ)むと、そっと胸に頬を寄せた。

 冬の夜気に冷たく凍える小さな躰を暖めながら、操は牀の(とばり)の中へと蓮を導いた。

「寒うはないか?」

 しっかりと帳を閉じ、夜具(やぐ)で包みながら、それでも操は尋ねる。

 蓮は笑みを見せたが、その(かお)は青白く、指先は凍るように冷たかった。

 操は蓮の白い手を取って暖めながら、涙の残る黒燿を(のぞ)き込む。

「蓮。庭に何を見た。楊奉の首でも見えたか」

 ぴくり。と蓮の肩が動く。

 だが、返って来たのは否定だった。

 蓮はただ首を振り、操の視線を避けるように貌を背けた。

「李(カク)や郭汜も知っているな」

 肯定は示さないが、やがて蓮の瞳から涙が(あふ)れた。

「……奴等も、そなたを抱いたのだな」

 蓮は涙の中で(くちびる)を噛み締め、ようやく頷いた。

 小さく嗚咽が漏れる。

「蓮。孤に全て話してみぬか」

 蓮はその言葉に貌を上げたが、(おび)えて首を振った。

 話せるわけがない。

 貌に浮かんだそれを承知で操は重ねる。

「大丈夫だ。孤は全て受け止める。吐き出さねば蓮の心は砕けてしまうぞ。そなたはもう、限界であろうが」

 それでも蓮は嫌がって、牀から逃げ出そうとさえする。

 その両肩を(つか)み、操は自らの正面に蓮を据えた。

「良いか。良く聞くのだ。孤はおおよその事は知っている。知っていてそなたを愛したのだ。何も怖がる事はない。頼むから、孤を信じてくれ」

 蓮は瞳を見開いて脣を震わせた。

 涙が次々と零れ落ちる。

 否定するように、その首が振られた。

 (イヤ)……

 戦慄(わなな)く脣が言葉を(かたち)取る。

 嫌……

 蓮は全てを拒絶するように耳を塞ぎ、操から躰を逸らして泣き伏した。

 調べる事など簡単だろう。

 蓮を知る者は他にもいる。

 彼がそれを行わないと思っていたわけではない。

 いや、操が全て知っている事をも解っていたのだ。

 それでも蓮は隠したかった。

 この人にだけは知られたくない。

 全てを消し去ってしまいたい。

 それも、操を愛して初めて気付いた感情だった。

 操は涙に(むせ)ぶ蓮を抱き起こすと、その胸に包み込んだ。

「すまぬ蓮。そう言えばそなたが傷つくのは解っていた。だが、蓮は孤の痛みを()むであろう? この操の代わりに泣いてくれるが、それではそなたの痛みは何処へ行くのだ? 孤はな、蓮の痛みを知りたい。いや、代わりたいのだ。そなたのように人の痛みを掬み、癒せるのならどんなに良いだろう。だが、孤にはそれは出来ぬ。それは、蓮にしか出来ぬ事なのだ」

 操は泣いていた。

 しっかりと蓮を抱き締めながら、その肩が震えていた。

 泣かないで。

 操が泣くと蓮は哀しい。

 自分が哀しいのより、もっと心が痛いもの……

 蓮は自らも涙を零しながら、操にその腕を廻した。

「それ、まただ。そなたはそうやって(またた)く間に孤を癒す。孤はそれをどうやって返せば良いのだ」

 蓮は首を振った。

 あなたが与えてくれたものは限りない。

 自分こそ、どうやってその恩を返せば良いのか……

 それを考えると途方に暮れてしまうほど、蓮は感謝していた。

 涙を拭って躰を離すと、蓮は操の(てのひら)に文字を(つづ)った。

『あなたが居てくれれば』

 蓮は涙の残る瞳で微笑む。

 ただそれだけで良いのだ。

 蓮はそれ以上何も望まない。

「そうか。だが、孤はそなたを置いて戦へ行く。悪い男だな」

 間もなく彼は戦へ行くのだ。

 蓮はそれも知っている。

 無理にここで過ごす時間を作ってくれたのは、その理由もあっての事だろう。

『対酒歌太平時』

 そう綴った蓮が操を見上げ、笑った。

「ん? そうだな」

 それは、操の創った一遍の詩の冒頭だった。

“酒を酌み交わし、太平の時を謳歌しよう”

 そう始まるその詩は、彼の目指す平和で豊かな世の中を描く。

 それを成すために、彼は戦場へと馬を駆るのだ。

 蓮は、それも良く解っていた。

「そんな世の中であれば、そなたも苦労しなかったであろうにな」

 蓮は首を振り、すっと操の胸に頬を寄せた。

『それではあなたに逢えなかった』

 刻まれた文字に操は頷く。

「そうか。そうだったな。蓮、そなたは宮中で育ったのだな」

 腕の中で、ゆっくりと少年が頷いた。

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