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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
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五十一.

「お前様は、人形のような蓮のほうが良かったと仰せかえ?」

 婆がその傍らに腰を降ろす。

 蓮はずっと物と変わらなかった。

 枕童とは、存在そのものが、人としての尊厳を踏みにじられているのだ。ただの動く人形と変わらない。物言わぬ蓮はなおのこと、その意思など捨て置かれて来ただろう。

 あの器量だから寵愛はされたであろうが、所詮は愛玩具としてだ。

 その蓮を、曹孟徳は人として扱った。

 それによって蓮は、人として再生したのだと言っても良い。

 人とは物を考える生き物だ。

 今の蓮の状態は、必然と言っても過言ではなかった。

「婆は、今の蓮のほうが可愛いよ。師が悪いのか、わがままばかり覚えよるがね」

 婆がそう言って笑う。

「蓮はお前様によって一度過去から引き上げられた。お前様が(せつ)を曲げ、心を鬼にして蓮を救った。だから、蓮はこうして人として再生出来たのだよ。それを忘れてはいけない。孟徳様が蓮を救ったのだよ」

 許へ来たばかりの蓮は、痛ましいほどに傷つき、病んでいた。

 このままこの子は(たす)からぬのではないかと、婆は思ったほどだ。

 そんな蓮を見るに見兼ね、彼はこの道を選んだが、それがどれだけ思い悩んだ末の選択であったかも婆は痛いほど知っている。

 そして、その道は決して平坦なものではなく、ようやく辿(たど)り着いたと思ったその先にも折れ曲がった険しいそれが続いていた。

「そう言ってくれるのは婆だけだな」

「そんなことはないさ。真にお前様を知る者は、皆気付く事さ。あの子だってちゃあんと解っている。頭の良い子だもの」

「その賢さをも愛しく思っていたが、今は少しせつないな」

 操が小さく笑った。

(わし)は蓮を守っていてやりたかった。薄絹で覆うように、(つら)い事、哀しい事から遠ざけて置きたかった。過去は全て済んだ事なのだと、お前は何も悪くないのだと言ってやりたかったが、触れられなかった。あれにそれを思い出させるのは、酷だと思ったのだ。孤のその甘さが、結局蓮を傷つけるのだな」

「あの子はそれを隠したがっているもの。お前様もお気付きだから、触れられなかったのだろう?」

「そうだな。だが、過去とは蓮の内側なのだ。いつか向かい合わねばならぬ。(ふた)をして、見て見ぬ振りをしていても、それは常に足元に大きく口を空けている。蓮はそれを越えねば、先に進むことが出来ぬのだ。……蓮は、大人になろうとしているのだな」

「人とは、成長するものだろう?」

「その通りだ。だが少し早過ぎる」

 推定ではあっても、蓮の歳からすれば、それは遅過ぎるくらいだろう。

 だが、操は蓮に、もっとゆっくりと過ごさせてやりたかった。

 子供らしい時間を取り戻し、満喫するにはまだまだ足りない。それなのに、時は待ってはくれないのだ。

 取り戻せない過去に(とら)われながら、不安なその先へと追い立てられ、混沌とした中で蓮はもがき苦しんでいた。

「大人になるのは惜しいかい?」

 それは、枕童としての終わりも意味する。

 婆の問には、少し、その事も含まれていた。

 蓮の不安には、それも、多少なりとも関与しているはずだ。

 枕童というのは結局刹那的な存在なのだ。愛される時期は極限られる。

 このまま成長して行けば、いずれ捨てられるかもしれない不安と、その前に独り立ちしなければならない(あせ)り。

 はっきりと少年は自覚していないかもしれないが、過敏な蓮の心には、無意識のままであったとしても、それらが渦巻いているはずだ。

 この先蓮をどうするつもりかと問いたかったが、婆であってもそれは出来ない。

 当然の事ながら、蓮を抱いたその日から、彼はそれを考えて来たであろうから……。

「何も知らぬ子供のままで、いられるものならいさせてやりたいが、それには心を放棄せねばなるまい。蓮の心はもう危うい。このまま行けば、あの子はそれを手放すしかないのだな」

 蓮はあれほど(おび)えても、その理由を決して語ろうとはしない。

 それどころか、自分の不安を隠そうとさえしていた。

 蓮は、過去に触れられたくないのだろう。

 出来るなら、その全てを無かった事にしたいのだ。

 しかしそれは、己に対する否定でもある。

 このまま蓮が過去を否定し続ければ、自己をも切り捨てることになるだろう。

 少年は今、その岐路にあると言っても良かった。

 今回きっかけを得てこうして表に出て来たが、それが蓮の中でずっと(くすぶ)り続けていたものであることも、操はうすうす気がついていた。

 解っていながら放置して来た自分に腹も立つが、どうしても操はそれに触れられなかった。

 なぜなら、蓮が最も過去を隠したい相手とは、他でもない、操自身であるからだ。

「酷なのを承知で言うが、蓮の過去を受け止めるのは孟徳様しかいないよ。蓮にとっては、他の者では意味がないのだもの」

「解っているよ。まったく因果だな。これは神罰かな」

 操はそう言って自らを(わら)う。

 神も仏も信じない彼にしては、随分と弱気な発言だった。

 婆は小さく肩を(すく)め、話題を変える。

「府から遣いが来ていたようだね。催促かい?」

「ああ、文若だよ。郭奉孝が代わりに働くから、存分に休めと言って来た。これは相当怒っているな」

 生真面目な彼の、静かな怒りの表情を思い浮かべ、操は苦笑(わ ら)う。

「奉孝殿もお気の毒よな」

「案外あれが、一番の被害者かもしれんな」

 荀文若の怒りをなだめ、尻拭いをしなければならないのだ。さぞかし嘆いていることだろう。

 こうして周囲を巻きこんでしまったのだ。

 なんとしても蓮を救わねば……

 操は瞳を閉じる。

 それは、郭奉孝から自分への、静かな援護でもあった。

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