四十九.
「奉孝。もうひとつ訊いてもいいかな」
静寂に響く静かな声に、嘉は瞳を向けた。
「なんでしょう?」
「なぜ主公に仕えようと思った」
「なぜって、文若殿が推挙してくださったからでしょう?」
その返答に彧が笑う。
「馬鹿を言え。私の言う事など聞くお前か」
「ひどいですね。私は文若殿にも、他の皆様にも、粛々としているつもりですが」
「なら、そういう事にしておこうか。だがお前はそうやって穏やかに振舞っていても、自分がこうと決めた事は譲らない。強情でわがままな上に、頭が回るから始末が悪い。口を利いてやるから仕官しろと言われて、ただ受けるような男ではないだろう」
「今日は、随分いろいろな事を言われますな」
嘉は苦笑するしかなかった。
「たまにはこういう話もいいだろう」
「そうですね」
ふっと嘉が笑った。
「私が曹孟徳に仕えるのを決めたのは、治下の盛り場が賑わっていたからですよ。どうせ住むなら、楽しい遊び場があるほうが良いでしょう?」
呆れるかと思った彧が、珍しく声を上げて笑った。
「ははは。お前がそうやって、盛り場で世の中の事を見ているのは知っているよ。だが、その物言いは誤解を招くから止しなさい」
やはり彼らしく、最後にお説教が附くのかと、嘉は思わず笑みを零した。
「誤解ではありませんよ。本当のことですから。国の礎は人です。そして、人の本質は娯しむ事だと私は思っています。人々が豊かで笑い興じていなければ、国もまた豊かだとは言えない。この乱世に天下統一を目指し、号令しようとする者は数あれど、それを知り、示している者は少ない。民は相変わらず搾取され、貧しく、飢えている。確かに曹孟徳の行いは苛烈だ。統治下にもその厳しさを感じます。だが、その下で人々は暮らし易いと笑っている。皆が笑って酒を酌み交わせる世の中は、私の目指すものでもあります」
曹孟徳は若かりしころ、地方の官職に就いた際に、役人の八割を罷免したことがある。
その前の北部尉としての容赦ない断罪ぶりと共に、その苛烈さを示す話として伝わっているが、言い換えればそれだけ漢の役人は腐敗していたのだ。役人達は私腹を肥やす事しか考えておらず、賄賂が横行し、人々は虐げられた。
その中において、曹孟徳は数少ない正義派官僚だった。
が、同時に彼は、徐州の地で大虐殺を行った男でもある。
城とは城下を郭で巡らせた、街と一体のものであり、戦になれば民は否応無しに巻き込まれてしまう。
それを承知で彼は兵を進め、いっさいの容赦をしなかった。
曹孟徳の徐州攻略には、父の仇討ちと大義名分が掲げられていたが、天下はその惨状に震え上がった。
これもまた、曹操と謂う男の側面である。
嘉はそれらの事を全て知った上で興味を覚えた。
空言の理想を掲げる、上っ面だけ善良な主君など求めてはいない。本気で善も悪も曝け出すその男に、会ってみたいと思った。
荀文若の招きを受ける形でその治下に入り、街の様子を見るにつけ、興味は希望へと変わった。
そして、実際に会った曹孟徳は、この上もなく魅力的な人物だった。
仕えるのはこの方を置いて他にいない。
嘉はその対面で確信した。
一方の君もまた、彼が退出した後彧に言った。
「我が大業を成就に導くのは、間違いなくあの男だろう」
君は会ったばかりの男を直属の祭酒に任じ、傍に置いた。
郭奉孝はその期待に良く応え、君一番の愛臣と言えば、以来変わらず彼である。
賞罰には厳格な君であるから、何の功績もないままに特別な扱いをする事はないが、彼らの主従を越えた信頼関係は、第一の重臣と言われる彧でさえ、時に羨ましいと感じる事がある。
そして、郭奉孝の卓越した洞察力をこうして見せ付けられると、やはり敵わないと彧は思った。
君はいろいろと一筋縄ではいかない人物だが、彼だけはその心の内の内を見抜いているのではなかろうか。
目の前で、にこりとその男が笑った。
その笑みを見ると、やはりまだ若いのだなあと彧は思うのだ。
「でも、一番の理由は、やはり主公が魅力的な方であられたからです。私はね、あの気性や性格にぞっこんなのですよ」
ふふ…と笑った嘉が、彧の瞳をまっすぐ見つめた。
「私は文若殿に感謝しているのです。こうして仕えるべき方に巡り逢えたのは、文若殿のおかげです」
「私が推挙しなくても、奉孝はいずれここへ来たのではないかな。あるいは主公が見つけるのが先か。人材には目の無い方だ。鼻も利くよ。お前など、ひと括りで引っ立てられたさ」
彧は珍しく軽口をきいて笑った。
「冷えて来たな。お互い風邪でもひいては困る。また明日から忙しくなるからな」
もう退出しようと声を掛ける。
頷く嘉に彧が続けた。
「奉孝にも存分に埋め合わせしてもらうぞ。覚悟しておいてくれよ」
笑ってそんな捨て台詞を残す彧を、嘉は溜め息交じりで見送った。
まじかよ……
彼の人使いの荒さは君並である。
明日からこき使われるかと思うと気が滅入り、いっそこのまま妓楼にシケ込もうかと思う。
そんな事したら、余計に事態が悪くなるだけだしなあ……
もう一度溜め息をつく。
とほほな嘉だった。