四.
月明かりの下に、たゆとう河の流れがあった。
ひたひたと響く水音が、時折月光を受けて煌く。
この流れに身を任せたら何処に辿り着くのだろう。
ぼんやりと水面を眺めながら、蓮は思った。
「このまま河の流れに身を投じたい。そんな風情だな」
不意に声を掛けられ、はっとして蓮は振り返った。
「死ぬより先に救けられてしまうぞ」
からかうような響きで覗き込む男から、蓮は瞳を逸らした。
言われるまでもないことだ。
剣を手にしてさえ、それは叶わなかったのだ。
ただ傷つけて終わった掌に、巻かれた白さが目に痛い。
その手を取られ、蓮は心の内に小さく悲鳴を上げた。
「痛むか?」
咄嗟に身を引こうとした蓮に彼が問う。
俯いたまま小さく首を振ると、男は指先を自らの脣に含んだ。
思い掛けないそれに、躰が小さく震える。
「傷が癒えたら楽を聴かせてくれ」
その言葉に蓮は一瞬貌を上げた。
が、すぐに頭を下げ、逃げるように男の横をすり抜ける。
遠ざかる乱れた足音に、操は僅かに眉根を寄せた。
「傷に熱がある。今一度薬師に診せよ」
その命に、闇の中から応ずる気配があった。
操が蓮と謂う童と出逢ってから、早数年の時が経っていた。
董卓が呂布に誅されると、一門の者はことごとく惨殺され、寵童として傍近く置かれていた蓮の境遇も大きく変わっていた。
呂布もまた追われた都では、董卓の配下であった武将達が権力争いに明け暮れ、長安は大いに乱れた。董卓派の武将達を快く思わない朝臣達の画策もそれに拍車を掛け、蓮はその中で翻弄された時を過ごしていた。
幼くして御位に着いた歳若い天子は、近習らを引き連れ、乱れた長安を脱したが、追撃され、敗走しながら、一年近くも放浪の旅を続けた。
一行がようやく辿り着いたのは、かつての都である雒陽だった。
だが、漢王朝は衰退を極め、帝が旧都に戻っても食料を供する者さえなかった。
董卓によって焼き尽くされた街には風雨を凌げる所もなく、美しかった雒陽は見る影もない。
そこは廃墟だった。
帝の一行は、餓死者を出すほどに困窮していた。
それを知ってなお、諸侯は動こうとはしなかった。誰もが漢王朝の滅亡を望んでいたのである。
ただひとり、曹孟徳だけが帝の庇護を表し、雒陽へ兵を進めて天子を奉戴した。
その一行に、蓮は在った。
軍閥におもねるように、朝臣が宮女の提供を暗に示した。
お望みなら枕童もおります。かの董卓が寵愛した者。それは良い夢を見せますぞ。
その諂笑にうんざりしながら、操はふと思った。
董卓の寵童とは、あの童の事であろうか?
その反応を興味と捕らえたのだろう。操はその少年と引き逢わされた。
力無く座した蓮は、ただぼんやりと地に瞳を向けていた。
ご所望なら今宵にでも。
露骨な勧めに、操はその少年の過ごして来た日々を思った。
蓮は全てを諦めているのか、何の反応も示さなかった。
だが、朝臣が操を呼んだ時、その視線が微かに動いた。
操の声を耳にして、ようやく少年はゆっくりと貌を上げた。
やつれて……
そのおももちに、操の心は痛んだ。
一行の衰弱は凄まじく、大人でさえ餓死に及んでいる。少年がこの苛酷な日々を生き延びていたことは、あるいは奇跡なのかもしれない。
だが、やつれても蓮は美しかった。
数年の間に童と呼ばれる歳から少年へと成長していたが、その貌は記憶のままに麗しく、冴え冴えと儚く愁いていた。
「幼子がご一緒か。すぐに薬師を差し向けましょう」
操はその誘いを退けると、つかつかと歩を進めた。
操がそれとなく蓮の事を調べさせると、おおよその想像と大差ない日々がそこにあった。
心身共に疲れ果てている。
操の遣わした薬師はそう診立てた。
己の行く末を悲観したのか、少年がその身へ刃を向けたのは間もなくの事だった。
薬師からの知らせに、操は自ら蓮のもとへと足を運んだ。
「怪我は?」
「もみ合った際に手を切っただけです」
視線の先に小さな姿があった。
泣く気力もないのだろう。蓮は精魂尽き果てたように、ただそこに在った。
力無く置かれた手に、白く布が巻かれている。
周りの者に押さえられ、剣を取り上げられて命はつないだが、もはや先への望みは潰えたかのように、その瞳は何も映してはいなかった。
操はその傍らへと歩を進める。
「孤を覚えているな?」
その問いに、微かに蓮の瞳が動いた。
「この者はこれより曹操が庇護に置く」
操はそう宣言し、翌日遷都を採択した。