四十八.
「思っていたより仲良くやっているようで安心しているが、お前は私がいくら言っても妓達と切れる様子もない。それは、惚れた相手が他にいるからではないのか?」
ずっと気になっていたことだ。
曹孟徳の重臣として務めながらも、相変わらずふらふらと盛り場をうろつく郭奉孝に、彧は身を固める事を奨めた。
誰ぞ、心に決めた女性がいるなら私が口を利こう。
あまりに彼が渋るので、彧は何度かそう言った。
何処かに結婚を約しながら、事情があって果たせぬ恋人でもいるのかと思ったのだ。
だが、そんな相手はいないと言う。
ただ面倒なのだと、彼は繰り返したものだ。
「またそれですか。そんな恋人がいたら、文若殿にご心配いただく前に、とっくに所帯を持っていましたよ」
嘉が苦笑する。
およそ役人には向かないと覚った時から、世の中と離れて嘉は暮らして来た。
こうして人に仕えるようになったらなったで、今度は大半を戦場で過ごすのだ。妻を持つ資格など、どこにあると言うのか。
やんわりとそんな話をしてみても、彼らは納得しなかった。
だからこそ、早く家庭を持たねばならぬのだと逆に諭される始末である。
子を持ち家を繋ぐのが、父母や先祖に対する最大の孝とされた時代であるから、彼らの言い分も当然と言えば当然なのだが、嘉にしてみれば、誰に迷惑を掛けているつもりもない。
放っといてくれと言うのが本音だった。
だが相手は、知謀と弁舌に長けた謀臣達である。
「お前、このまま独り身でいてみろ、主公に婿がねと目を付けられるぞ」
とうとうそう言って脅された。
「五年待っても三十そこそこか。まだまだいけるな」
にやりと笑われ、さすがの嘉もぞくりとした。
女好きの君には幾人もの側室がおり、当然子も次々と産まれている。
戦に明け暮れ、蓮を抱き、子供もせっせと作る元気な君に、体力のない嘉などは羨望を通り越して目眩さえ覚えるが、何にせよ、子供がたくさんいることは事実だった。
そして、これからも産まれて来る。
君と仰がれる彼の娘の嫁ぎ先とは何処か。
諸侯と政略結婚させるならともかく、玉の輿となれば帝の妃くらいである。それも、姉妹で然う競わせるわけにもいかないから、限られた椅子だ。
あとは周辺に縁を求めて行くわけだが、そこには重臣の子も選択肢として含まれる。
子供同士ならまだいいが、嘉は彼らからひと世代出遅れているのだ。
「まさか」
嘉は笑い飛ばそうとしたが、謀臣達は一笑に付した。
「お前はまだまだ甘いな」
「あの、主公だぞ」
若くて、好い男で、お気に入り。
三重苦ではないかと彼らは嘲った。
仕えるべき君としては魅力的な彼も、舅となれば話は別である。
それはちょっと……
いや、だいぶ嫌かも……
ひきつる嘉の肩を、ぽんと彧が叩いた。
「私に任せておけ」
嘉は屈した。
しかし、さすがと言おうか、荀文若の人脈と眼識はたいしたもので、彼が選び抜いた郭嘉の嫁は、なかなかの女性だった。
容姿にはこだわらない。強いて言えば気位の高い女性は苦手かな。
そんな消極的な希望しか言わない嘉に彼が選んで来たのは、美人過ぎず愛らしく、名門の出ではないが曹司空の重臣である夫の格式を保てるだけの教養があり、出過ぎず、それでいてどこか浮世離れした嘉を支えるしっかり者だった。
もちろん君からは、その話題を酒の肴にされた。
「さすがのお前も年貢の納め時か」
からからと楽しそうに笑った後、君はじっと嘉に視線を留めた。
「そなた、いくつになる」
「三十路も間近ですが」
数えで二十七だから誇張である。が、それでも君は
「ふーん」
と、少し目を細めるようにして嘉を眺めた。
――これは、何か良からぬ事を考えているな。
嘉は内心冷汗をかきながら、笑った。
「良い女性と巡り会えて、この歳まで待ったカイがありました」
「そうか。それなら止めぬが……。少し、惜しいな」
呟く君に、妻を大切にしようと嘉は思った。
その気持ちに偽りはない。
「私は実際に会った上で、彼女を妻にと思ったのです。何の感情もなければ一緒にはなりませんよ。私のような身持ちの悪い男には、もったいなかったとは思いますがね」
「それだよ。奉孝。案外良い夫なので、正直私は意外だったくらいだ」
郭奉孝は結婚後も相変わらず盛り場に出入りしているが、それなりに妻君の事も考えているようだった。
彼は身分に合った暮らしを整えるだけの人を置こうとせず、少しは立場を考えろと彧が何度諭しても、煩わしいと言うばかりだった。
だが、黙って諸事をこなす妻に気付き、使う者を増やしたりもしている。夫婦は意外と仲睦まじい様子なのである。
そんな彼が悪所通いを続けている理由が、彧には解せない。
「奉孝。一度きちんと訊きたいと思っていたんだ。なぜそうやって、不品行と非難されるような事をする」
言ってはなんだが、女が必要なら囲えば良いのである。この時代、身分ある者が愛妾を置くのは当然のことだ。
それをふらふらと遊び歩くから非難されるのであって、酒もまた然りである。
士大夫と言われる連中は、むしろ大酒呑みであることを誇りにさえしている。酒を呑む事そのものが、非難されているわけではないのだ。
「身持ちが悪いからでしょう」
あっさりと笑う嘉に彧が首を振った。
「そうではないだろう。お前は物事に対して淡白だ。それほど女に執着しているようには見えないよ」
「そうですか? 私は酒も女も大好きですが。博打もそこそこ強いので、遊ぶ金にも困りません」
「お前の遊交費の出所など訊いとらん」
はぐらかされ、少々拗ねた様子の彧に嘉が笑う。
ふと、その瞳が遠くなった。
「文若殿はご存知なかろうが、妓楼の女は一夜の夢を売る。それは泡沫に過ぎないが、こんな世の中には必要なものです。そして、それを与える妓達も、自分の夢が欲しい」
「それがお前だと言うのか?」
「そうは言いません。ただ、私を望んでくれるのなら、それも良いかと思っているのです」
その言葉で、なんとなく彧は解った気がした。
誰も好き好んで身を売っているわけではない。それは、妓楼に近付かない彧にさえ解る。
拐かされて来た者もあろうし、借金の形に捕られた者も、生活苦にその身を金に換えた者もあるだろう。
楼に身を置けば稼ぎも求められる。妓達にとって彼が上客なのは、彧にも想像がついた。
「お前は優しい男なのだな」
「そうでしょうか? 私のこういうところが惨いのだと、妓達は言いますが」
笑う嘉に彧が苦笑する。
確かにその調子で誰かれかまわず優しくされれば、妓達の心も波立つだろう。
「ある夜、泡沫の夢の中に唄が聞こえて来ました。その妓は言いました。自分は戦をする男はみんな嫌いだ。だが、この歌は好きだと」
「主公の創られた詩か」
君の創る詩は、文人達の型に嵌まった堅苦しいものではなく、市井の人々が唄う歌謡を取り入れたものだった。
民謡や流行歌に近く、男女の事を歌ったものが多いそれを、上流の者達は低俗なものとして扱っていたが、曹孟徳の詩は一気にその俗曲を芸術の域にまで高めた。
何よりも人々は“庶民の風俗”が受け入れられた事を嬉び、また、詩の美しい響きと内容にも共感して、良く唱った。
「主公の目指す太平の世は、きっとそういう妓達や、蓮のような子供が泣かぬ国でもありましょう」
「そうだな。そうかもしれぬ」
妓を請け出し救う事も、売色を禁ずる事も簡単だ。
けれども、それだけでは本当の解決にはならない。
自らを売らずに済むような暮らしが、人々にもたらされない限り――
「……だが、あの子供はこの乱れた世が生んだ徒花だ。それも事実だな」
「はい。それゆえ主公は思い悩んでおられる。文若殿の言われた事も、全てご承知なのでしょう。それでいながら敢えてその道を選ぶ……」
――辛いな。
嘉は思った。
彧にもそれが解るのだろう。ただ頷いた。
少し、沈黙が降りる。