四十七.
君からの遣いに、彧は激怒して嘉に当たり散らした。
「これ以上の不在を皆にどう説明しろと言うのだ。私はふた夜で必ず戻ると言うから承諾したのだぞ」
嘉はなんとかなだめようと言葉を尽くすが、彧はますます眦を吊り上げた。普段の物静かな彼からは、想像もつかない怒りようである。
「そんなに主公の肩を持つなら、身代わりに座って居ろ」
そんな無茶な……
ひどいヤツアタリだった。
冷静沈着な彼とは思えない、その激昂の理由も解る。
理解し難い寵童との休暇を曲げて受け入れ、その不在を庇って来たのだ。
もう少し延ばしてくれと言われて、はいそうですかとは受け入れられまい。
そして、自分の前だからこれほど感情をあらわにし、言いたい事を言うのだ。
それは解っている。
解ってはいるが、
恨むよ……
嘉は、なだめ役となった己の不運に溜め息をついた。
「文若殿。蓮殿はここのところひどく塞いでおられた。主公はそれを慰めようと寮へ行かれた。主公とて無理はご承知なれば、それなりの理由がお有りなのでしょう」
おそらく、蓮が良くないのだと、あの蒼褪めた微笑を思い出す。
彼が怒るのも解るが、嘉には蓮のほうが心配だった。
彧は、そんな嘉をキッと睨みつけた。
「そんな事は解っている。私だってあの時室にいたんだ。あの様子を見れば、誰だって解るさ。あの子は触れられたくない傷を抉られて苦しんでいるのだろう? だが、ああして公室に居る以上、あらゆる報が耳に入る。それを考えなかったとは言わせぬぞ」
はっと胸を衝かれて、嘉は彧の言葉を見つめた。
「そもそも主公は、あの子供を庇い過ぎる。愛しいのは判る。そして、それほどあの子の既往が厳しいものなのだと推察するのは簡単だ。だが、懐深く包み込んで、それで済まされる話ではないだろう? 傷は見て見ぬふりをしていれば癒されるのか。その耳を塞いでも、いずれ外の音は届く。その時苦しむのは、あの子ではないか」
彧は悲痛なおももちで首を振った。
「今回の事もそうだ。結局非難されるのはあの子だ。せっかく皆が良い感情を持っている時に、なぜこんな真似をする。そもそも、なぜ蓮は錦で飾り立てて主公を追った。あの惨事の後の、御嫡子を亡くされたばかりの時にだぞ。どう考えても時期が悪過ぎる。あの子にだって、それが解らなかったわけではあるまい? どうして自ら非難を受けるような事を、しなければならなかったのだ」
「あの子供が何者であれ、奥の方々と同じようにご寵愛なさるのなら、多少の奇異はあっても、それはそれで周囲も納得したはずだ。だが、主公はそれもなさらない。臣は主公を思えば思うほど、蓮を非難してしまうのだ。英邁な主公にそれが解らぬはずがあるまい? 本来であれば、もっと巧く立ち廻ることの出来る主公が、蓮の事に関しては判断が狂っているとしか思えない。私はそれがもどかしくてならないのだ」
「文若殿……」
この人はこんなふうに思っていたのかと嘉は思う。
清冽な彼が蓮を受け入れることはあるまいと、端から思っていた。
だがこの人は、蓮と謂う存在を排除しようとはしなかった。それどころか、なんとかふたりを取り巻く事情をやわらかなものにしたいと考え、悩み、怒っているのだ。
やはり、この人こそ家中一の臣だ。そう思った。
「文若殿。これは私の推測ですが、もしかしたら主公は、蓮を枕童として傍に置くつもりはなかったのかもしれません」
「どういう事だ?」
「仲徳殿の言葉ではありませんが、主公が蓮を見る目は慈愛に満ちておられる。私はそんな主公を見ていると、この人が本来望んでいたのは、そういう関係だったのかもしれないと思うことがあります」
君は蓮と嘉が話している様子を、目を細めて見ている事がある。
蓮と嘉の間には、もちろん色めいた関係が無い。それが少年を和ませるのか、枕童としての表情ではなく、子供が本来持っている無邪気さや無防備さを見せることがあった。
無論、君を恋慕う蓮の愛らしさはそれを上回り、嘉を持ってしても妬ましいと思わせるほどで、君とてそれを不足には思っていないだろう。
だが、ふとした折りに、自分が捨てた道の果てを思うことがあるようだ。
「文若殿も、蓮と謂う子供のこれまでを、それとなくお聞き及びでしょう。もちろん主公はそれを全てご承知だ。主公があの子を庇護した理由までは知りませんが、閨の慰みに連れて来られたわけではありますまい」
家中には、かつて董卓やその配下に仕えていた者もいる。人の噂に戸は立てられないとは言え、蓮の過去は隠しようがない。それが、君を色好みだ好き者だと揶揄する理由であり、傾国の艶麗よと、蓮が非難され警戒されるわけでもある。
だがそれは、蓮と謂う子供の実情を知らぬからだと嘉は思う。
あの許への旅の途中。真っ青な貌で自らの肩を抱き、震えていた蓮を、嘉は忘れる事が出来ない。
少年は気を失うように眠りに落ちて行ったが、その眦からは涙が幾粒も零れ、落ちて砕けた。
ずっとこんな様子なのだと、駆けつけた薬師が嘆いていた。
それを知りながら、蓮を慰みにしようなどと思える君ではあるまい。
「あの少年には、閨を抜きにして、その存在を認められることが必要だったと思います。ましてや、それまでの境遇を知る主公は、蓮を想えば想うほど、情を通じるのをためらったのではないでしょうか。だがあの子は、それ以外の手段で人との関係を築くことが出来なかった。文若殿の言うように、見て見ぬふりをしていても傷は癒えない。主公は心を鬼にして蓮を閨中に追い込んだ。私の想像は、それほど遠いものではないと思います」
「だが、そんな主公のお気持ちを知らず、蓮のほうが本気になってしまった。そう言うのか?」
「いいえ。そうではありません。主公は憐れみでも同情でもなく、真からあの子に惹かれていた。その想いの深さゆえに、己の情を封じても良いと思っていたのだと私は感じています。あからさまな話で文若殿はお嫌かもしれぬが、惚れれば抱きたいと思うのは人の性質です。それを曲げようとさえ主公は思った。それだけの想いだ。一度その手に抱いてしまえば、もう気持ちを抑えることなど出来ますまい」
君のそのころの身を焦がすような激情を、傍にいた嘉は少なからず感じていた。
「だが、家中は蓮のような存在を容易には受け入れられない。主公はその事も良く解っておいでだった。焦がれるほど欲しながら、それでも主公は蓮を離そうとなさった。全て、あの子を思ってのことです。あの、喪を理由に別邸へ下がられたころの話ですよ」
「本当なのか?」
嘉は黙って頷く。
「主公は、誰にもそんな話はなさいませんからね」
おおっぴらに言える話ではない。
嘉とて、荀文若だから――
あれほど君や蓮の事を思っていると示してくれた彼だから、こうして話す気になったのだ。
「あの子が主公を追ったのはそれゆえか」
嘉が再び頷く。
「蓮もまた、主公を深く想っていました。永遠に失うかもしれない危機感が、あの子を別邸へと走らせた。主公が何を悩み、何を苦しんでいたのかも解っているのでしょう。敢えて身を飾って主公を追ったのは、悪評を全て自分へ向けるためだったと私は思っています。蓮は、そういう子なのです」
「夏侯将軍が同じような事を言っていたな。蓮は人の痛みを掬むのだと」
夏侯元譲は、蓮を弁護する唯一と言って良い家臣である。君の最も信頼する臣であり、やはり従兄弟だからこそ出来ることだった。
いくら君のお気に入りとはいえ、一介の臣に過ぎない郭奉孝には、表立って君の寵童を庇い立てることは叶わない。彼は君に召されても、話の内容を軽率に洩らす男ではないし、その親しさを吹聴することは決してなかった。
不品行と言われる郭嘉を、奥ゆかしい、慎ましいと、君が手放しで褒め重用するのはそのためなのだ。
「あの子は主公にとってなくてはならない存在なのです。蓮もまた、主公の傍で随分と変わりました。だが、その傷の全てが癒えたわけではないのです。もう少し、時間を与えてやってください」
嘉はそう言うと、彧に向かって頭を垂れた。
「もういいよ、奉孝。今回の件は私も腹を括るさ。正直私は、ああして恋焦がれ合う感情を、少々羨ましいとも思っているんだ。我ながら、つまらん男だと思うがね」
生真面目な彧はそう言うと、少し寂しそうに笑った。
「それは私とて同じですよ。主公や蓮のように、溺れるように人を愛するのはなかなか難しいことです。そういう相手に巡り逢うというのは、案外稀有なことなのかもしれませんね」
「奉孝はたくさん女性を知っているだろう。そういう人はいないのか?」
「いないなどと言っては、妻に叱られますな」
嘉が笑ってやり過ごす。
そんな嘉に彧は視線を止めた。
彼が娶った相手は彧が世話をした。惚れた腫れたの婚姻でないことは、解っていたのだ。