表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
48/138

四十七.

 君からの遣いに、(イク)は激怒して嘉に当たり散らした。

「これ以上の不在を皆にどう説明しろと言うのだ。私はふた夜で必ず戻ると言うから承諾したのだぞ」

 嘉はなんとかなだめようと言葉を尽くすが、彧はますます(まなじり)を吊り上げた。普段の物静かな彼からは、想像もつかない怒りようである。

「そんなに主公(との)の肩を持つなら、身代わりに座って居ろ」

 そんな無茶な……

 ひどいヤツアタリだった。

 冷静沈着な彼とは思えない、その激昂の理由も解る。

 理解し難い寵童との休暇を曲げて受け入れ、その不在を(かば)って来たのだ。

 もう少し延ばしてくれと言われて、はいそうですかとは受け入れられまい。

 そして、自分の前だからこれほど感情をあらわにし、言いたい事を言うのだ。

 それは解っている。

 解ってはいるが、

 恨むよ……

 嘉は、なだめ役となった己の不運に溜め息をついた。

「文若殿。蓮殿はここのところひどく塞いでおられた。主公はそれを慰めようと寮へ行かれた。主公とて無理はご承知なれば、それなりの理由がお有りなのでしょう」

 おそらく、蓮が良くないのだと、あの蒼褪(あおざ)めた微笑を思い出す。

 彼が怒るのも解るが、嘉には蓮のほうが心配だった。

 彧は、そんな嘉をキッと(にら)みつけた。

「そんな事は解っている。私だってあの時室にいたんだ。あの様子を見れば、誰だって解るさ。あの子は触れられたくない傷を(えぐ)られて苦しんでいるのだろう? だが、ああして公室に居る以上、あらゆる報が耳に入る。それを考えなかったとは言わせぬぞ」

 はっと胸を()かれて、嘉は彧の言葉を見つめた。

「そもそも主公は、あの子供を庇い過ぎる。愛しいのは(わか)る。そして、それほどあの子の既往が厳しいものなのだと推察するのは簡単だ。だが、懐深く包み込んで、それで済まされる話ではないだろう? 傷は見て見ぬふりをしていれば癒されるのか。その耳を塞いでも、いずれ外の音は届く。その時苦しむのは、あの子ではないか」

 彧は悲痛なおももちで首を振った。

「今回の事もそうだ。結局非難されるのはあの子だ。せっかく皆が良い感情を持っている時に、なぜこんな真似をする。そもそも、なぜ蓮は錦で飾り立てて主公を追った。あの惨事の後の、御嫡子を亡くされたばかりの時にだぞ。どう考えても時期が悪過ぎる。あの子にだって、それが解らなかったわけではあるまい? どうして自ら非難を受けるような事を、しなければならなかったのだ」

「あの子供が何者であれ、奥の方々と同じようにご寵愛なさるのなら、多少の奇異はあっても、それはそれで周囲(まわり)も納得したはずだ。だが、主公はそれもなさらない。臣は主公を思えば思うほど、蓮を非難してしまうのだ。英邁な主公にそれが解らぬはずがあるまい? 本来であれば、もっと(うま)く立ち廻ることの出来る主公が、蓮の事に関しては判断が狂っているとしか思えない。私はそれがもどかしくてならないのだ」

「文若殿……」

 この人はこんなふうに思っていたのかと嘉は思う。

 清冽な彼が蓮を受け入れることはあるまいと、端から思っていた。

 だがこの人は、蓮と謂う存在を排除しようとはしなかった。それどころか、なんとかふたりを取り巻く事情をやわらかなものにしたいと考え、悩み、怒っているのだ。

 やはり、この人こそ家中一の臣だ。そう思った。

「文若殿。これは私の推測ですが、もしかしたら主公は、蓮を枕童として(そば)に置くつもりはなかったのかもしれません」

「どういう事だ?」

「仲徳殿の言葉ではありませんが、主公が蓮を見る目は慈愛に満ちておられる。私はそんな主公を見ていると、この人が本来望んでいたのは、そういう関係だったのかもしれないと思うことがあります」

 君は蓮と嘉が話している様子を、目を細めて見ている事がある。

 蓮と嘉の間には、もちろん色めいた関係が無い。それが少年を和ませるのか、枕童としての表情(ソ レ)ではなく、子供が本来持っている無邪気さや無防備さを見せることがあった。

 無論、君を恋慕う蓮の愛らしさはそれを上回り、嘉を持ってしても(ねた)ましいと思わせるほどで、君とてそれを不足には思っていないだろう。

 だが、ふとした折りに、自分が捨てた道の果てを思うことがあるようだ。

「文若殿も、蓮と()う子供のこれまでを、それとなくお聞き及びでしょう。もちろん主公はそれを全てご承知だ。主公があの子を庇護した理由までは知りませんが、(ねや)の慰みに連れて来られたわけではありますまい」

 家中には、かつて董卓やその配下に仕えていた者もいる。人の(うわさ)に戸は立てられないとは言え、蓮の過去は隠しようがない。それが、君を色好みだ好き者だと揶揄(やゆ)する理由であり、傾国の艶麗よと、蓮が非難され警戒されるわけでもある。

 だがそれは、蓮と謂う子供の実情を知らぬからだと嘉は思う。

 あの許への旅の途中。真っ青な(かお)で自らの肩を抱き、震えていた蓮を、嘉は忘れる事が出来ない。

 少年は気を失うように眠りに落ちて行ったが、その眦からは涙が幾粒も(こぼ)れ、落ちて砕けた。

 ずっとこんな様子なのだと、駆けつけた薬師(くすし)が嘆いていた。

 それを知りながら、蓮を慰みにしようなどと思える君ではあるまい。

「あの少年には、閨を抜きにして、その存在を認められることが必要だったと思います。ましてや、それまでの境遇を知る主公は、蓮を想えば想うほど、情を通じるのをためらったのではないでしょうか。だがあの子は、それ以外の手段で人との関係を築くことが出来なかった。文若殿の言うように、見て見ぬふりをしていても傷は癒えない。主公は心を鬼にして蓮を閨中に追い込んだ。私の想像は、それほど遠いものではないと思います」

「だが、そんな主公のお気持ちを知らず、蓮のほうが本気になってしまった。そう言うのか?」

「いいえ。そうではありません。主公は憐れみでも同情でもなく、真からあの子に()かれていた。その想いの深さゆえに、己の情を封じても良いと思っていたのだと私は感じています。あからさまな話で文若殿はお嫌かもしれぬが、()れれば抱きたいと思うのは人の性質(サガ)です。それを曲げようとさえ主公は思った。それだけの想いだ。一度その手に抱いてしまえば、もう気持ちを抑えることなど出来ますまい」

 君のそのころの身を()がすような激情を、傍にいた嘉は少なからず感じていた。

「だが、家中は蓮のような存在を容易には受け入れられない。主公はその事も良く解っておいでだった。焦がれるほど欲しながら、それでも主公は蓮を離そうとなさった。全て、あの子を思ってのことです。あの、喪を理由に別邸へ下がられたころの話ですよ」

「本当なのか?」

 嘉は黙って(うなず)く。

「主公は、誰にもそんな話はなさいませんからね」

 おおっぴらに言える話ではない。

 嘉とて、荀文若だから――

 あれほど君や蓮の事を思っていると示してくれた彼だから、こうして話す気になったのだ。

「あの子が主公を追ったのはそれゆえか」

 嘉が再び頷く。

「蓮もまた、主公を深く想っていました。永遠に失うかもしれない危機感が、あの子を別邸へと走らせた。主公が何を悩み、何を苦しんでいたのかも解っているのでしょう。()えて身を飾って主公を追ったのは、悪評を全て自分へ向けるためだったと私は思っています。蓮は、そういう子なのです」

「夏侯将軍が同じような事を言っていたな。蓮は人の痛みを()むのだと」

 夏侯元譲は、蓮を弁護する唯一と言って良い家臣である。君の最も信頼する臣であり、やはり従兄弟だからこそ出来ることだった。

 いくら君のお気に入りとはいえ、一介の臣に過ぎない郭奉孝には、表立って君の寵童を庇い立てることは叶わない。彼は君に召されても、話の内容を軽率に()らす男ではないし、その親しさを吹聴することは決してなかった。

 不品行と言われる郭嘉を、奥ゆかしい、慎ましいと、君が手放しで褒め重用するのはそのためなのだ。

「あの子は主公にとってなくてはならない存在なのです。蓮もまた、主公の傍で随分と変わりました。だが、その傷の全てが癒えたわけではないのです。もう少し、時間を与えてやってください」

 嘉はそう言うと、彧に向かって頭を垂れた。

「もういいよ、奉孝。今回の件は私も腹を括るさ。正直私は、ああして恋焦がれ合う感情を、少々羨ましいとも思っているんだ。我ながら、つまらん男だと思うがね」

 生真面目な彧はそう言うと、少し寂しそうに笑った。

「それは私とて同じですよ。主公や蓮のように、溺れるように人を愛するのはなかなか難しいことです。そういう相手に巡り逢うというのは、案外稀有なことなのかもしれませんね」

「奉孝はたくさん女性を知っているだろう。そういう人はいないのか?」

「いないなどと言っては、妻に叱られますな」

 嘉が笑ってやり過ごす。

 そんな嘉に彧は視線を止めた。

 彼が娶った相手は彧が世話をした。惚れた腫れたの婚姻でないことは、解っていたのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ