表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
45/138

四十四.

「孟徳様、よろしいか?」

 室の外から遠慮がちに声が掛けられた。

「婆か。かまわぬよ」

「お話中すまぬな」

 かたりと扉を開け、婆が(かしこ)まった。

「いや。蓮か」

 婆は少し困ったように溜め息をつき、(うなず)いた。

「見ていて哀れだ。お顔なり見れば、少しは落ち着こうかと思うてな」

「うん。奉孝も一緒だから来るように言ってくれ」

「おお、そうよの。それなら呼んで来ような」

 婆はいそいそと立ち上がると、蓮を迎えに戻って行った。

「すまぬな、奉孝。このところ、蓮が不安定でな」

 嘉も理由が解って頷く。

 先日、許にひとつの知らせが届いた。

 帝の一行が長安を出て(ラク)陽へ辿(たど)り着くまでの一年、その身を(まも)り、従って来た者に、楊奉と()う男があった。

 彼は、董卓亡き後長安にて横暴を奮った李(カク)の配下だったが、彼らの勢力を抑えたい朝臣達の画策によってそのもとを離れた。楊奉が離叛することで李傕の力が衰え、争っていた郭汜との停戦が成り、帝は長安から脱することが出来たのである。

 旅の間も楊奉はその軍勢で一行を護り、追撃する李傕らの軍と戦った。

 帝はことのほか彼を頼りにされたが、朝臣との折り合いは悪かった。

 雒陽まで随行して来た楊奉は政権の中で孤立し、食糧問題もあり、結局梁へとその軍勢を移した。

 その間に曹軍が雒陽へ入り、彼を出し抜く形で帝を許へと伴った。

 楊奉は当然兵を向けたが曹軍との戦に敗れ、旧知の韓暹と共に袁術のもとへ身を寄せた。

 袁術が帝を僭称(せんしょう)すると、ふたりは転じて呂布に加勢し、偽帝の軍勢を撃ち破った。今上帝への忠誠心は、案外本物だったのかもしれない。

 しかし呂布とは結局決裂し、敵対していた劉備に共謀を持ち掛けたものの、逆に彼に謀殺されたのである。

 劉備は使者を遣わし、その首級を許へと送り届けて来た。

 公室に居た蓮は、その報に持っていた書簡を取り落とし、真っ青になって震えた。

 気遣う周囲の声に首を振ったものの、少年は耐え切れずに耳を塞いでその場に伏した。

 その様子に君は無言で蓮を抱き上げ、そのまま室を出て行った。

 以来、蓮は公室へ姿を見せていなかった。

「私はお(いとま)しましょう。どうぞ、蓮殿のお(そば)に」

「いや、いいのだ。ここに呼んだほうがあれも気が紛れる。少しの間で良い。逢ってやってくれ」

 その言葉に嘉は黙って頷く。

 君の沈痛なおももちに、心が痛んだ。

 やがて婆がその手を引いて、再び戸口へと姿を見せた。

「さ、蓮。主公(との)がお待ち兼ねだよ」

 促され、室に入って来た蓮は、そこでまたためらうように足を止めた。

「おいで」

 操が腕を伸ばすと、ようやく蓮は歩を踏み出し、ぱたぱたと小走りにその手に(すが)った。

 傍らに膝を折り、操の(てのひら)を両手で包んで(うつむ)いた自らの頬にあてる。

 細い肩が震え、こらえていた涙が数滴(こぼ)れた。

「どうした。怖い事を思い出したか」

 蓮は小さく首を振り、ようやく(かお)を上げた。

 蒼褪(あおざ)めた頬でほのかに微笑(わら)う。

 操は蓮を傍らに引き寄せると、その肩を抱いた。

 こんな時でもなんとか耐えようとする蓮が、哀れだった。

「奉孝も来ておる。気持ちを変えて少し付き合え」

 蓮はこくりと頷くと、嘉にかんばせを向け、小さく笑った。

 可哀想に……

 蒼褪めた微笑に嘉は思う。

「お姿を拝見して嬉しく思います。ここ数日お逢い出来ず、寂しく思っていましたよ」

 嘉の声に、蓮は瞳を潤ませて頷いた。

「主公は人使いが荒い方ゆえお疲れでしょう。皆、蓮殿は良くやっていると、感心しておりました」

「仲徳は(わし)(うらや)ましいと、ほざきおったぞ」

「仲徳殿は正直なのです。口に出さぬだけで、皆主公を羨んでおります」

「あれは正直とは言わんだろう」

 からからと笑う。

 この君は、それぞれの長所も短所も承知で人を使い、愛した。

「奉孝。蓮はこの間また池に落ちるところでな。孤が寸手で捕まえた」

 笑う操の袖を蓮が引く。

 話してくれるなと言っているのだろう。

「この間はなんであったかな。春は蝶で、秋には蜻蛉(とんぼ)だったの。(かわず)や亀が泳ぐのも、追いたくなったのだったな」

 操の言葉に蓮はもじもじと落ち着かない。

 自分でもそれらの奇行を恥ずかしいと思っているのだ。

 だが、時々何かに心を奪われてしまうのである。

「何もかもが珍しいのですね」

 嘉の微笑(ほほえ)みに、蓮は恥ずかしそうに俯きながら、こくりと頷いた。

 蓮には知らない事が多過ぎた。

 綺麗に整えられた庭を眺めては来たが、その中で自由に遊ぶことは許されなかった。

 蝸牛(かたつむり)に首を傾げ、跳ねる昆虫に驚き、蓮は操に笑われる。

 それらが姿を消した冬の庭でさえ、蓮には目新しい物ばかりだった。

「そなたはそれで良いのだ」

 操は目を細めて蓮の頭を撫でる。

 焦らずに、ゆっくり大人になればいい。ずっと激流に身をゆだねて来たのだ。せめてこれからは、のんびり過ごさせてやりたい。そう思っていた。

「ただな、もうこの季節では水は死ぬほど冷たいぞ。池に落ちるのは夏だけにしてくれよ」

 蓮はそれこそ真っ赤になって俯き、はい。と小さく頷いた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ