四十四.
「孟徳様、よろしいか?」
室の外から遠慮がちに声が掛けられた。
「婆か。かまわぬよ」
「お話中すまぬな」
かたりと扉を開け、婆が畏まった。
「いや。蓮か」
婆は少し困ったように溜め息をつき、頷いた。
「見ていて哀れだ。お顔なり見れば、少しは落ち着こうかと思うてな」
「うん。奉孝も一緒だから来るように言ってくれ」
「おお、そうよの。それなら呼んで来ような」
婆はいそいそと立ち上がると、蓮を迎えに戻って行った。
「すまぬな、奉孝。このところ、蓮が不安定でな」
嘉も理由が解って頷く。
先日、許にひとつの知らせが届いた。
帝の一行が長安を出て雒陽へ辿り着くまでの一年、その身を護り、従って来た者に、楊奉と謂う男があった。
彼は、董卓亡き後長安にて横暴を奮った李傕の配下だったが、彼らの勢力を抑えたい朝臣達の画策によってそのもとを離れた。楊奉が離叛することで李傕の力が衰え、争っていた郭汜との停戦が成り、帝は長安から脱することが出来たのである。
旅の間も楊奉はその軍勢で一行を護り、追撃する李傕らの軍と戦った。
帝はことのほか彼を頼りにされたが、朝臣との折り合いは悪かった。
雒陽まで随行して来た楊奉は政権の中で孤立し、食糧問題もあり、結局梁へとその軍勢を移した。
その間に曹軍が雒陽へ入り、彼を出し抜く形で帝を許へと伴った。
楊奉は当然兵を向けたが曹軍との戦に敗れ、旧知の韓暹と共に袁術のもとへ身を寄せた。
袁術が帝を僭称すると、ふたりは転じて呂布に加勢し、偽帝の軍勢を撃ち破った。今上帝への忠誠心は、案外本物だったのかもしれない。
しかし呂布とは結局決裂し、敵対していた劉備に共謀を持ち掛けたものの、逆に彼に謀殺されたのである。
劉備は使者を遣わし、その首級を許へと送り届けて来た。
公室に居た蓮は、その報に持っていた書簡を取り落とし、真っ青になって震えた。
気遣う周囲の声に首を振ったものの、少年は耐え切れずに耳を塞いでその場に伏した。
その様子に君は無言で蓮を抱き上げ、そのまま室を出て行った。
以来、蓮は公室へ姿を見せていなかった。
「私はお暇しましょう。どうぞ、蓮殿のお傍に」
「いや、いいのだ。ここに呼んだほうがあれも気が紛れる。少しの間で良い。逢ってやってくれ」
その言葉に嘉は黙って頷く。
君の沈痛なおももちに、心が痛んだ。
やがて婆がその手を引いて、再び戸口へと姿を見せた。
「さ、蓮。主公がお待ち兼ねだよ」
促され、室に入って来た蓮は、そこでまたためらうように足を止めた。
「おいで」
操が腕を伸ばすと、ようやく蓮は歩を踏み出し、ぱたぱたと小走りにその手に縋った。
傍らに膝を折り、操の掌を両手で包んで俯いた自らの頬にあてる。
細い肩が震え、こらえていた涙が数滴零れた。
「どうした。怖い事を思い出したか」
蓮は小さく首を振り、ようやく貌を上げた。
蒼褪めた頬でほのかに微笑う。
操は蓮を傍らに引き寄せると、その肩を抱いた。
こんな時でもなんとか耐えようとする蓮が、哀れだった。
「奉孝も来ておる。気持ちを変えて少し付き合え」
蓮はこくりと頷くと、嘉にかんばせを向け、小さく笑った。
可哀想に……
蒼褪めた微笑に嘉は思う。
「お姿を拝見して嬉しく思います。ここ数日お逢い出来ず、寂しく思っていましたよ」
嘉の声に、蓮は瞳を潤ませて頷いた。
「主公は人使いが荒い方ゆえお疲れでしょう。皆、蓮殿は良くやっていると、感心しておりました」
「仲徳は孤が羨ましいと、ほざきおったぞ」
「仲徳殿は正直なのです。口に出さぬだけで、皆主公を羨んでおります」
「あれは正直とは言わんだろう」
からからと笑う。
この君は、それぞれの長所も短所も承知で人を使い、愛した。
「奉孝。蓮はこの間また池に落ちるところでな。孤が寸手で捕まえた」
笑う操の袖を蓮が引く。
話してくれるなと言っているのだろう。
「この間はなんであったかな。春は蝶で、秋には蜻蛉だったの。蛙や亀が泳ぐのも、追いたくなったのだったな」
操の言葉に蓮はもじもじと落ち着かない。
自分でもそれらの奇行を恥ずかしいと思っているのだ。
だが、時々何かに心を奪われてしまうのである。
「何もかもが珍しいのですね」
嘉の微笑みに、蓮は恥ずかしそうに俯きながら、こくりと頷いた。
蓮には知らない事が多過ぎた。
綺麗に整えられた庭を眺めては来たが、その中で自由に遊ぶことは許されなかった。
蝸牛に首を傾げ、跳ねる昆虫に驚き、蓮は操に笑われる。
それらが姿を消した冬の庭でさえ、蓮には目新しい物ばかりだった。
「そなたはそれで良いのだ」
操は目を細めて蓮の頭を撫でる。
焦らずに、ゆっくり大人になればいい。ずっと激流に身をゆだねて来たのだ。せめてこれからは、のんびり過ごさせてやりたい。そう思っていた。
「ただな、もうこの季節では水は死ぬほど冷たいぞ。池に落ちるのは夏だけにしてくれよ」
蓮はそれこそ真っ赤になって俯き、はい。と小さく頷いた。