四十一.
「奉孝」
退出しようとした嘉は、呼び止められて足を停めた。
荀文若の視線に従い、隣室へと移動する。
何か説教をくらうような事をやらかしただろうかと、このところ、おとなしくしていたつもりの嘉は首を捻った。
もっとも、そのつもりが厄介なのだと、彼は怒るのだが。
「どうした?」
「いえ。文若殿に改まってお説教いただくような心当たりが……」
「何を言っている。お前に心当たりがなくても、こっちには山ほどあるわ。もう言い飽きて怒る気にもならんだけだ」
彧は思わず苦笑する。
郭奉孝と謂う男は、いくら自分が懇々と世の中の理を解き、品行を改めさせようとしても、その時は神妙に聞いているくせに、ちっとも悪びれる気配がない。
中傷や嘲笑を他所で吹く風のように受け流し、相も変わらずふらふらと巷を遊び歩く彼を理解し難いと思いながら、それでもこうして親しく付き合っているのは、その才を認めているのと、やはり人好きするこの男の特性だろう。
どうしても、彼を憎む気持ちになれないのである。
主公の重用も、それゆえだろうと彧は思う。
少々癖のある性格といい、結局彼らはどこかで似ているのだ。
「……蓮殿の、事ですか?」
これだ。と彧は失笑う。
この男の怜悧さは、彧でも時に敵わないと思う事があった。
そして、このさりげない気配りも。
彧が話し易いように、彼は水を向けてくれたのだろう。
「ああ。奉孝は主公の室で何度か逢っているようなので話を聞きたくてね」
君に内々の相談で召される事は当然あるが、蓮が居合わせたことはなかったのだ。
ふうん。と嘉は、曹陣きっての謀臣に視線を向けた。
頭は切れるし、佳い男なのに、堅物なのが少々難点だと思っていた。
清廉で潔白なこの人が、あの子供に興味を持ったのである。彼の気質を思うと、蓮のような存在は、なかなか受け入れてはくれまいと思っていたが、案外早く事は進むだろうか。
その視線に見破られたと思ったのだろう。彧は軽く咳払いなどしてみせる。
「そのな、恐れ多いが、主公は少々軽率ではないかな。あのように臣の前で明け透けに寵を示されては、皆も目のやり場に困る」
「そうですか? あれでもおふたりは、随分と場をわきまえていらっしゃると思いますよ。室ではもっと仲睦まじくいらして、私なんぞは毎回当てつけられてますよ」
「そうか。お前もいろいろ大変だな」
真面目な顔で労われ、嘉は危うく吹き出すところだった。
「いえいえ。私はそんなおふたりを見るのが嬉しくもあるのです。蓮殿の愛らしい様は見ての通りですが、主公もそれは寛いで良い顔をなさる。おふたりにとって、互いがなくてはならない存在なのです」
「それはそうなのかもしれぬが、古の例もある。あまり主公が偏愛を見せてもな。臣とは何かと気を回して心配するものだ」
彧は言葉を切り、少し考えた。
「奉孝。あの少年は佞臣となる質だろうか」
取り繕うこともせず、言にした。
彧は郭奉孝の卓越した状況分析の能力と、そこから来る予見の目を信じている。四の五の言わず、はっきり訊いたほうが良いと判断したのだ。
そして、こんな事を言えるのも、ふたりが親しい間柄だからである。
「それはありません」
いつものように明快な応えだ。
「断言するか。では、彼はどんな子供かな」
「そうですね。どちらかと言うと、ぼんやりした子でしょうか」
「奉孝……。それは、おっとりと言うのではないか?」
「おっとり、ですか。まあ、そう言えなくもないのですが……」
そう言いながら嘉は小さく首を傾げた。
蓮は少々変わった子供で、ひらひらと舞う蝶に心奪われて池に落ちたとか、偶然見つけた蟻の巣を時間を忘れて眺めていたとか、そんな話に事欠かない。
歩き始めたばかりの子供のようで、目が離せない。君もそう言って苦笑していた。
「蓮殿は、そうですね。例え話として、ここに銭があったとします。それを彼に渡しても、ただ銭だな。としか思わないのです。しばらく後でもその事をきちんと記憶していて、尋ねれば当然のようにそれを差し出します。それで何かを買おうとか、どれくらいの価値があるとか、そういう事には思い至らないのです」
この例え話は、そのまま少年が務めている任に当てはまる。
ああして君の傍に居れば、知り得る機密は膨大な量だ。それを悪用しようとは考えないと、彼は言っているのだろう。
確かに公室で見る少年は、周りで交わされている論議を聞いているのかいないのか、良く解らないところがあった。
嘉の言うように、君の傍らに座している蓮はどこかぼんやりとしており、彧の目からすれば、頭が足らなそうに見えなくもない。
協議の内容が難し過ぎて理解出来ないのだろうと思っていると、今日のように何も言われないのに突然必要な書を選び出して来る。
それは、大量に持ち込まれる書簡についても同じだ。
はたして少年は、その内容に目を通しているのだろうか。
別段興味を示している様子はないのだが、君が尋ねれば迷いもなく書架からそれを引き出せる。
不思議な子供だと、彧も何度か首を傾げたことがあった。
「それは、貨幣の制度を知らぬからではないのか」
あの子供は、自分の扱っている物の価値を知らぬのだと彧は思っている。
その無知が、機密を利用して得る物を覚えたらと思うと、危惧を抱かずにはいられなかった。
「では、仮にそれを教えたとしましょう。この銭一枚でこれがひとつ買える。彼は、仕組みはすぐに理解出来るし、頭の悪い子ではないから、教えなくても十買うには十の銭が要ることにも思考がまわります。相場のようなものについても、教えればすぐに覚えるでしょう。でも、これが欲しいから銭が要るとは考えない」
「応用がきかぬと言うことか?」
良く解らないと思う彧の前で、嘉もまた首を傾げた。
「それが、そうとも言えないのです。主公が仰るには、水と謂う字を教えればすぐに覚え、読むことも出来るし、意味も解っている。水が欲しいと書けと言われれば正しく文字を綴るのに、自分が水の欲しい時にそれを使う事が解らない」
「解らない? なぜだ」
「さあ……? 主公がそれを教えても、不思議そうに首を傾げていたそうです。ただ、文字が言葉だという事は簡単に理解出来る。やがて、様々な事を文字で伝えるようになりました」
「そうか。それは応用だな」
「はい。蓮殿は万事そんな調子です。どこか抜けてるんだよな」
「奉孝……」
彧は、その口の悪さに思わず口を挟む。
「ああ。抜けていると言うのは、そういう意味ではないんです。こう、感情とか思考の途中に、ぽっかりと空白があるような印象ですね」
「ふむ。どうも話を聞いていると、自身の事が感覚的に落ちているようだな」
「それは確かです。主公が教えるまで、彼は文字を知りませんでした。口のきけないあの子にとって、自分の意を伝える術がないに等しい。それでも、それを不自由だとは思っていなかったようなのです。意思そのものが抜け落ちていたと言っても、過言ではないかもしれません。おそらくは、かなり早い段階で、それを断ち切られたのではないでしょうか。その蓮が主公を求めたのは、とても大きな事なのです」
受け入れてやってくれと、嘉は言っているのだ。
正直、彧はまだ戸惑っている。清白を好む彧からすれば、蓮のような子供は理解し難い存在である。ただ、実際のその姿は、彧の目から見ても、ひどく愛らしいものだった。
「まあ、主公がお決めになった事だ。私が口を挟める話ではないよ」
これは彼なりの容認の言葉だろう。
嘉が小さく口元をほころばせた。
「家中きっての頭脳が、何の密談かな?」
不意に声が掛かり、ひょっこりと程仲徳が顔を出した。
「あの子供の事だろう」
応えも待たずににやりと笑う。
謀臣とは思えないほど偉丈夫なこの男は、昔良く太陽を両手で掲げ持つ夢を見たと云う。その話を聞いた君がおもしろがり、本名の立の上に日を与えた。
「吾も噂ではいろいろ聞いておったが、まさかあれほどとは思わなかったぞ。主公でなくても、そりゃあ共寝の夢をと思うわな」
げらげらと笑う。
六十に手が届くのも近いというのに、元気な爺さんである。
傍らの彧の表情がすっと変わった。
厚かましく、強情なこの人の質を、個人的にはあまり好んではいない。それでも節度を重んじる彼は、智恵ある年長者を敬っていた。打ち解けた嘉との会話から、がらりとその声音までが変わる。
「件の少年を、主公が重用なさっておいでなのは、その有能な質ゆえでございましょう。貴殿も先程ご覧になられたはず」
「ご覧になられたから言っているのさ。主公も良く懐中から出したものだ」
彼がそう言うのには理由があった。
実は、蓮の楽上手の噂が帝の耳に届き、時折司空府から良い音が聞こえるそうだな。と、近臣に尋ねられた事があった。暗にそれを望まれたのである。
しかし、彼らの君は、楽士をご所望なら捜すよう指示を出し、あっさりそれを退けた。
侍従らは帝への不敬とざわめいた。
君は平素から帝だからと遜りもしないが、彼がそれを退けたのにもまた理由があった。
楽士の身分は低い。
人前で楽を奏で、唄い、あるいは舞う女は、娼妓と変わらなかった。訪なった客をもてなすために囲われ、売り買いされる存在なのだ。
君は、蓮がそれ同然に扱われるのを嫌がったのだ。
だが、曹操は大事な寵童を懐深く仕舞い込んで、帝にさえ見せないと、揶揄する者は揶揄した。
程仲徳が言ったのはその事で、懐に仕舞い込んでいた理由が解ったと、笑っているのだ。
「正直、あの主公は少々意外だったぞ。あのご気性で鈍臭そうな子供の相手をしているのにも驚いたが、吾は何やら慈愛のようなものを感じたよ」
その口の悪さは家中一である。失笑した嘉の横で、思い掛けず彧が反論した。
「主公はもともと情の深い方ですが、蓮殿が鈍臭いとは随分ですな。私にはむしろ聡い方だと感じられましたが」
返された相手が、ほう…と声を上げた。
「堅物のおぬしがあの孌童の弁護をするか。ほほう。あの子供はたいしたものだ」
「何を仰せになります」
心なしか眦を険しくする彧に、ふんふんと彼は頷いた。
「文若殿が容認したとなれば、主公の目論みは見事成し遂げられたと言うことかな」
これだからこの人は侮れないのだと、そのやりとりに嘉は思った。
君が蓮を人前に連れ出した目的には、家臣達の容受が含まれていただろう。そして、その中で最も欲しいのは、第一の重臣である荀文若のそれであったはずだ。
「なるほど。仲徳殿は是認のご判断か」
さすがに曹孟徳に“我が子房”と呼ばせる人物である。その頭脳は相手の真意を瞬時に理解し、冷静なまま言葉を紡ぐ。
鈍臭いなどとあえて乱暴な言葉を使っているが、要するに程仲徳は、かの少年に害はなさそうだと言っているのだ。
「是認も何も、手に入るものなら欲しいがのお」
にやりと笑う。
荀文若が眉根を寄せる見事な返しに、思わず嘉は吹き出した。
そんな嘉にふたりが視線を向ける。
何を笑っているんだと、彧が睨みつけていた。
「奉孝は、無論主公と同じ穴のナントカよな」
その言われように、嘉は黙って肩を竦めた。
程仲徳の口の悪さには慣れっこだ。言葉を選ばず、我の強いこの仁は、何かと他の者と衝突するが、案外嘉は嫌いではなかった。
「あの子供を知っていて手を出さぬとは、そなたらしうもない。家中一の遊び人の名が廃るぞ」
相変わらずの物言いに苦笑しながら、そこは冗談で切り返す。
「主公が相手では、さすがの私も分が悪いのですよ」
「譲ることはあってもその逆はないと言うことか。いや、忠義、忠義」
「はい。家中広しといえど、そちらで主公と張り合えるのは私くらいでしょう。光栄に思っておりますよ」
すましてそんな事を言う嘉に、荀文若がたまりかねたように溜め息をついた。
「……奉孝。頼むからこれ以上問題を起こすな」
「なんですと?」
どいつもこいつもどういう意味だと気色ばむ嘉の横で、げらげらと程仲徳が腹を抱えて笑った。