四十.
翌朝。
ふたりがまだ共寝の夢にひたっているころから、操の帰宅を促す使者が府より遣わされた。
またこの間のように籠られては困ると思ったのだろう。矢の催促だった。
しぶしぶと操は日の高いうちに蓮を伴い、府へと戻った。
実際、この多忙な君は、遊んでなどいられなかった。
彼が袁術の進軍を退け、逆に攻め入ってその本拠地を落としながら、逃亡した袁術を追わずに兵を返したのには理由があった。
この年、大地は旱魃に見舞われた。淮水地方にはさらに水害も起こっており、兵を進めるほどにその被害は深刻で、行軍に支障を来たす有り様だった。
無理に追わずとも、袁術がその勢力を反す事はないでしょう。
郭嘉の言もあり、操は兵を返した。許に戻り、救援政策に乗り出さねばならなかったのだ。
時は乱世である。
戦と飢饉で大地は荒れ果て、人が人を喰うほどに飢えていた時代だった。人口は激減し、人々の心は荒みきっていた。その中で国を維持して行くのは容易な事ではない。
人の上に立つとはすなわち、その糧の面倒をみるということだった。
操は屯田制を引くことで治下の食料を確保していたが、さらにそれを強化し、政策で補う必要があった。飢饉や戦乱が起こるたびになだれ込む、飢民難民の救済も行わねばならない。
操は有能な為政者で、良くそれを導いて行ったが、とにかく多忙だった。
また、彼の頭脳が全開で動き出すと、それについて来る者に限りが生じる。
もどかしく思いながら、のめり込んで行くと、細かい指示を出すのがどんどん億劫になってしまう操である。悪い癖だと思っているからなんとかこらえているが、このままでは癇癪を起こしそうだった。
とうとう操は蓮を公室に引き摺り込み、仕事を手伝わせた。
そのおっとりとした様子からは想像もつかないが、蓮は頭の回転も悪くなく、一度教えれば大概の事は理解して操の用を淡々と片付ける。物覚えが非常に良いのだ。
公室にまで寵童を連れ込んだ君に、集った幕閣は当初顔を引きつらせたが、その仕事振りを見るにつけ、彼らの意識も変わって行った。
蓮の才を隠すな。
そう言った郭奉孝を思い出す。
実際、蓮を公室へ連れ出すのを迷った操は、その言葉を支えにこれを踏み切っていた。
すっと何気ない様子で、少年が君の前に膳を置いた。
案件の書簡が所狭しと広げられた政務の間である。
どうしてここでそれを出せるのかと、集った幕僚達は思わず色を失った。
折りも折り、この癇癪持ちの主君は、進まぬ協議に青筋を立てているところだった。
だが、彼は別段それを咎める素振りも見せず、変わらず論議を続けながら左手で椀を持ち上げた。
蓮が君の右手に箸を持たせる。
君は目で書簡を読みながら、耳で臣の言葉を聞き、椀を傾けた。
彼はまさに、飯を食う間もないのである。
君は、羹を啜りながらも、何やら思案を巡らせている様子だった。
立ち上がった蓮は書架から一本引き出すと、君の前に広げ、周りに投げ捨てられていた書をくるくると巻き始めた。それらはすでに処理済みなのだろう。
「やはりな。定かな記憶ではなかったが、このままでは行き詰まる」
少年が広げた書に視線を落とした君は、忌々しそうに呟いた。
今度はその簡を拾い上げた蓮は、謀臣達へと差し出した。
「どう思う」
それを覗き込み、視線を走らせ、彼らは声をあげた。
頭の片隅にこれを記憶していた君も恐ろしいが、驚嘆すべきは傍に侍る少年である。まるで君の手足のように細々とした雑事をこなしているが、それは何の指示も受けぬままに進められている。少しでも見識のある者は、すでにこの美貌の子供に舌を巻いていた。
「蓮。そなたもまだであったな」
貌を上げた蓮に操が箸を向けた。
小鳥が啄ばむように、差し出されたそれを口にする。
その愛らしい様に顔をほころばせ、操はそれを繰り返した。
「それ、もうひとくち。好き嫌いを言ってはならんぞ」
そんなふたりに協議の声が止まった。
「話を進めよ」
ぎろり。と操が彼らを睨んだ。
蓮に餌を与えるのを楽しみながら、その耳は協議に向けられているのだ。天下に奸雄と恐れられるわけである。
蓮は小さな笑みでそんな操を控えめに窘めると、巻き終えた簡を抱えて立ち上がった。
それらの行先は様々だが、それを綺麗に分類し、書架へもひとつひとつそれぞれの場所へと仕舞って行く。傍目にはただ無造作に投げ捨てられているようにしか見えない書簡を、少年は何も訊かずに拾い集めては、こうして片付けて行くのだ。
操が欲しいと言うと、蓮は書架の中からすぐにそれを選び出して来る。
この莫大な書を全て覚えているのかと不思議に思い、尋ねると、蓮は笑って首を振った。
それはそうである。ここには、蓮が出入りする前から大量の書があるのだ。
では、なぜ選び出せるのかを重ねて問うと、自分でも解らないのか不思議そうに首を傾げる。
蓮は、そんな変わった子供だった。