三.
童が弓を引いた瞬間、全ての者が息を凝らした。
なんという才だ……
操も密かに舌を巻く。
小さな子供の指では至難であろうに、童はまだ珍しい異国の楽器を巧みに繰り、その豊かな音色で宴の席を満たしていった。
宴に併せ、華やかな曲を奏でてはいるが、哀愁を弾かせたら涙せぬ者はあるまいと操は思った。
宴に集った者達は、酒をあおるのも忘れたかのように童を見つめ、あるいは瞳を閉じて、その調べに身をゆだねていた。
ふと、そこに、微かな乱れが走った。
それは、ここに居るほとんどの者が気付かぬほど僅かなものだが、操には判った。
傷が痛むか……
肩先を押さえていた姿が甦る。
童の名を呼びながら回廊を求めて来た家人達は、勝手に出歩いた蓮を口々に咎めながら、やがて傷が開いている事を認識り、慌てふためいていた。
それでも彼らはここに蓮を供した。
楽を奏でさせればどうなるかも承知の上で、主の怒りを恐れるあまり、年端も行かぬ子供を差し出したのである。
すらりと立ち上がった曹孟徳に、宴の客はいっせいに視線を向けた。
美童の奏でる麗曲に併せ、その男は優雅に舞い始めた。
黄巾討伐に功を上げた武将であるが、その猛々しい武勇伝に反して小柄で華奢な男だった。細面に鼻筋が通り、目元も涼しい。
禁令を犯した者を、その身分にも躊躇せず撲殺した。任官先では不正に手を染める役人を容赦なく罷免した。何かと凄まじい噂ばかりの男だが、初めて会う者は、その容貌との落差に大抵驚いた。
今ここで舞っている姿からも、苛烈な戦場での姿など想像がつかない。
なんと優雅なことよ。
思いも掛けない余興に、宴に集う者達は目を細めた。
「近こう」
舞い終えた操を董卓が手招いた。
「見事だ。曹孟徳は戦だけでなく歌舞も得手か」
「あまりに見事な音曲に我を忘れてしまいました。お目汚し、ご容赦を」
「ふふ。おもしろい男だ。褒美を取らそう」
そう言うと董卓は、傍らに座した蓮を引き寄せた。
微かに震えるその麗顔を楽しみ、髪にあった銀の華を引き抜く。
一瞬蓮を供するのかと、さすがに驚きを感じた操の前に、無造作にそれが投げられた。
「そなたへの褒美は後程たっぷりとな」
ねっとりと意を含んだまなざしで蓮を眺め、震える脣を武骨な指でなぞる。
「呑め」
花びらのようなそれへ盃を含ませながら、董卓は続けた。
「拒めば口移しで呑ませるぞ」
観念したように蓮が瞳を閉じた。
口に含んだそれを、コクリと小さな音を立てて飲み込む。
たったそれだけの事でさえ、ぞくりとするような艶が満ちた。
「受けよ」
命と共に蓮の干した盃が向けられた。
ひととき視線を留め、膝を進めて盃を受ける。
操がそれを飲み干すと、董卓は声を上げて笑った。
「楽を奏でよ。華やかに舞え。このふたりのようにとは言わぬ。賑やかにやれ。皆、盃を満たせ。大いに打ち騒ぐのだ」
高らかに笑う男からは、先程までの不機嫌さは全て消え去っていた。
董卓はその一件で、曹操と謂う男がひどく気に入ったらしい。より一層の熱心さを持って、配下へと操を誘った。
驍騎校尉。それが董卓の用意した椅子だった。
だが操は、政権を掌握し、位人臣を極めるこの男に反する道を選んだ。
その年の内に首都雒陽を出奔した操は故郷へ戻り、家財を散じて兵を集めた。
明けて正月。帝を手中に暴政の限りを尽くす董卓を討伐すべく、豪勇が一斉に挙兵。操もまた果敢に戦に挑んだ。
しかし、董卓を倒したのはその連合軍ではなかった。
董卓は形勢不利と見るや、自らの勢力圏に近い旧都長安への遷都を強行。その地で要塞を築き、天下人として君臨し続けた。
この希代の傑物が倒れたのは、連合が事実上解散した翌年。養子としていた呂布による謀殺であった。