三十七.
漢王朝は衰退していた。
この正月に揚州の袁術が帝位を僭称したが、帝を自称した者は、何も彼が初めてではなかった。
乱世に勢力を持つ男達は、大抵自ら天下に号する野望を持っている。このまま漢が滅びれば、彼らは何に憚ることなく、次々と帝を名乗るだろう。
それが、放浪していた歳若い天子に、諸侯が手を差し伸べなかった理由のひとつである。皆、漢王朝が倒れるのを待っていた。
もうひとつ。
今の天子は董卓がその前の帝を廃し、権力ですげ替えた帝だった。それゆえ、その正当性を疑問視する声も高かった。
今上と前帝は共に霊帝の子であるが、霊帝は、後ろ盾がなく幼齢で御しやすいという理由で継嗣に選ばれた王族の子供である。
帝位の継承に、血の濃さなど問題にされなかった。今の帝が逆賊に殺されようと、荒野で野たれ死のうと、正直誰も困らない。王朝を継続したければ、霊帝のように王族から適当な人物を担ぎ上げれば済むのである。
僅か九歳で帝位に即いた劉協は、その御位にありながら、人々から捨て置かれた天子であった。
しかし、彼は幼いころから聡明だった。
董卓が帝位を覗いながらも彼を殺さなかったのは、ひとえに協の聡明さによるものだ。
廃墟の雒陽で拝謁した際に、操は身をもってそれを識った。
この天子ならば。
そう思わせる何かが彼にはあるのだ。
曹操が天子を奉戴したのは、歳若い帝を繰って権力を握り、一気に諸侯から抜きん出る事が狙いだったと言われているが、正直、益だけを求めて庇護を決められるほど事は簡単ではなかった。
自らの領地へ迎え入れ、宮殿をはじめ天子としての暮らしを整え、その都を護りながら諸侯と渡り合い、政を執り行う。
それは、下手な忠誠心や正義感だけで成せるものではないし、操に強いそれがあったとも言わないが、口で言うほど生易しい事ではないのだ。
帝ひとりではない。
そこに仕える数多の文官女官は言うに及ばず、すでに腐敗しきった朝廷が引き摺る悪習も、意味も無くひたすら面倒な儀礼も、もれなく憑いて来るのだ。下手をすればこちらの身動きが取れなくなる。
それが解っていたから諸侯は帝を迎えようとしなかったはずだ。
それをいまさら曹孟徳を逆臣呼ばわりする世の中に、臣達は不満を口にした。
いっそ、禅譲を受けられて御位に即かれては。
そう勧める者もあった。
だが、操には帝を名乗る気などなかった。
正直、そんな面倒なモノになるのはごめんだった。
操は天を見上げて詩歌に興じ、大地を駆けて戦に躍し、人々の中で憩い、笑い、遊ぶ。心のままに生きる自由を、手放すつもりはなかった。
天子を戴く以上、それがもたらす益はとことん利用するつもりだが、漢王朝をそのために持ち上げようとも思わなければ、敢えて閉ざすつもりもない。
常識に捕らわれず、常に現実を見つめている彼は、王朝や帝と謂うものにあまり意味を感じていないのだ。
要は世の中が治まれば良く、そのための政を執り行う事こそが肝要であって、為政者の肩書きなどなんでも良いと思っていた。
人々が天子を仰ぐのであればその御世は続こう。
別の王朝を求めるのなら、それを立てるのも良い。
だが、それでも、自分は周の文王であろうと思っていた。