表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
38/138

三十七.

 漢王朝は衰退していた。

 この正月に揚州の袁術が帝位を僭称(せんしょう)したが、帝を自称した者は、何も彼が初めてではなかった。

 乱世に勢力を持つ男達は、大抵自ら天下に号する野望を持っている。このまま漢が滅びれば、彼らは何に(はばか)ることなく、次々と帝を名乗るだろう。

 それが、放浪していた歳若い天子に、諸侯が手を差し伸べなかった理由のひとつである。皆、漢王朝が倒れるのを待っていた。

 もうひとつ。

 今の天子は董卓がその前の帝を廃し、権力ですげ替えた帝だった。それゆえ、その正当性を疑問視する声も高かった。

 今上と前帝は共に霊帝の子であるが、霊帝は、後ろ盾がなく幼齢で御しやすいという理由で継嗣(けいし)に選ばれた王族の子供である。

 帝位の継承に、血の濃さなど問題にされなかった。今の帝が逆賊に殺されようと、荒野で野たれ死のうと、正直誰も困らない。王朝を継続したければ、霊帝のように王族から適当な人物を担ぎ上げれば済むのである。

 僅か九歳で帝位に即いた劉協は、その御位(みくらい)にありながら、人々から捨て置かれた天子であった。

 しかし、彼は幼いころから聡明だった。

 董卓が帝位を(うかが)いながらも彼を殺さなかったのは、ひとえに協の聡明さによるものだ。

 廃墟の(ラク)陽で拝謁した際に、操は身をもってそれを()った。

 この天子ならば。

 そう思わせる何かが彼にはあるのだ。

 曹操が天子を奉戴したのは、歳若い帝を(あやつ)って権力を握り、一気に諸侯から抜きん出る事が狙いだったと言われているが、正直、益だけを求めて庇護を決められるほど事は簡単ではなかった。

 自らの領地へ迎え入れ、宮殿をはじめ天子としての暮らしを整え、その都を(まも)りながら諸侯と渡り合い、(まつりごと)を執り行う。

 それは、下手な忠誠心や正義感だけで成せるものではないし、操に強いそれがあったとも言わないが、口で言うほど生(やさ)しい事ではないのだ。

 帝ひとりではない。

 そこに仕える数多(あまた)の文官女官は言うに及ばず、すでに腐敗しきった朝廷が引き()る悪習も、意味も無くひたすら面倒な儀礼も、もれなく()いて来るのだ。下手をすればこちらの身動きが取れなくなる。

 それが解っていたから諸侯は帝を迎えようとしなかったはずだ。

 それをいまさら曹孟徳を逆臣呼ばわりする世の中に、臣達は不満を口にした。

 いっそ、禅譲を受けられて御位に即かれては。

 そう勧める者もあった。

 だが、操には帝を名乗る気などなかった。

 正直、そんな面倒なモノになるのはごめんだった。

 操は天を見上げて詩歌に興じ、大地を駆けて戦に躍し、人々の中で憩い、笑い、遊ぶ。心のままに生きる自由を、手放すつもりはなかった。

 天子を戴く以上、それがもたらす益はとことん利用するつもりだが、漢王朝をそのために持ち上げようとも思わなければ、敢えて閉ざすつもりもない。

 常識に捕らわれず、常に現実を見つめている彼は、王朝や帝と()うものにあまり意味を感じていないのだ。

 要は世の中が治まれば良く、そのための政を執り行う事こそが肝要であって、為政者の肩書きなどなんでも良いと思っていた。

 人々が天子を仰ぐのであればその御世(みよ)は続こう。

 別の王朝を求めるのなら、それを立てるのも良い。

 だが、それでも、自分は周の文王であろうと思っていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ