三十六.
夏侯元譲もまた、蓮のその変化に驚いたひとりだった。
穏やかな陽気のひととき。蓮の膝を枕に操が寛いでいると、静寂を破る気配が近付いて来た。
「元譲。何か用か」
操は手にした紙片に瞳を止めたまま、入って来た者を呼ぶ。
彼は行儀悪く寝転がって、詩の推敲をしているのである。
「何かじゃない。俺の用など解っているだろうが」
どかりと座る惇にひとつ笑い、操は蓮に紙片を向けた。
「どうかな?」
蓮はそこに視線を落とし、何やら指で示した。
「ふむ……。お前は結構文才があるな」
蓮が小さく笑う。
蓮は操の詩が大好きだ。てらいがなく、まっすぐで、生き生きと彼は言葉を綴る。
そこには、喜びも、哀しみも、優しさも、痛みも、煌くように在った。
蓮がそっと操の肩に触れ、横から覗き込むように見つめた。
無論、それはまなざしだけで示されたものだったが、優しい声で何かを囁いているようだと惇は思った。
操には蓮の物言わぬ言葉が解るのだろう。
ふと苦笑し、身を起こした。
「まったく。元譲、お前は無粋なヤツだよなあ」
惇に向かってそう言うと、操は笑いながら顔をしかめた。
にこりと惇に笑い掛け、蓮が立ち上がった。
「……なんだか、少し見ぬ間に変わったな」
蓮の事だった。
視線が室を出て行く姿を追う。
「ふふ。一段と艶めいただろう」
「あのなあ」
惇は意を含む操に呆れたが、ふと、あながち戯れ言でもないかなと思った。
「まったく。お前達も無茶をしたもんだ。お前がムチャクチャなのは昔から知っているが、あのおとなしい蓮が信じられん。悪い影響を与えすぎじゃないのか?」
「ひどいな。俺はそんなに滅茶苦茶か?」
操が苦笑する。
「俺は、今のあの子も良いと思うから、あれはあれで良かったのだと思う。だがな、孟徳。人はそう見ないよ」
今とにかく非難されているのは、やはり操を追った蓮のほうだ。
惇はその事が心配だった。
「曹操の悪評を、あれが半分持って行ったのさ」
「まさか、あの子はそれを承知でお前を追ったんじゃないよな?」
操がふっと笑う。
否定のそれではない。
だが、彼は違う事を言った。
「俺が恋しかったからに決まっているだろう」
「言いやがれ」
惇が鼻を鳴らす。
「ふふ。元譲、蓮はな、人の痛みを掬むのだ」
「痛みを掬む?」
操はただ静かに笑っていた。
その様子に、ああ。と、惇は思う。
彼は彼なりに、いろいろと傷つき痛みを抱えている。それを癒すのが、蓮と謂う少年なのだろう。
近しい惇は、あの戦の後に、操がかつてないほど沈んでいたのも知っている。独り傷みを胸に秘めるその姿に、王者の道の孤独と厳しさを思った。
さすがの彼も、そこから立ち直るのにはしばらく掛かるだろうと案じていた。
だが、蓮がいた。
あの少年は、操の言葉を借りるなら、まさにその心の傷みを掬み上げたのだ。
操は子を殺した罪を一生背負って行くだろう。
それだけではない。
覇業の名の下に殺して来た命の全てを、彼は背負っている。
茨の道を歩むこの男のために、天があの子を遣わしたのかもしれない。
そんな事を思った。
「元譲。酒が来たぞ」
かたりと小さく音を立てて、蓮が室へと戻って来た。
酒の支度が運び込まれる。
操が指示を出したようにも見えなかったが、あの子には解るのだろうか。
それとも、自分が来たら酒だと教えているわけではあるまいな。
「俺は酒を呑みに来たわけじゃないぞ」
少々拗ねて、そんな事を言ってみる。
「ん? お前の用とはこいつだろう?」
「孟徳!」
「はは。冗談だ。解っているよ、兵は動かす」
今度はさらりと男が言った。
揚州の袁術が動き始めていた。彼は、今年の春に帝を名乗り、内外へそれを宣言した。
現在の王朝である漢の帝を奉戴している曹操は、必然的にそれと対峙することになる。
偽帝と袁術を公然と非難して、こちらから討伐の兵を挙げるか、あるいは、袁術が漢王朝の幕引きのために攻め寄せるか。どちらにしろ、戦は避けられないだろう。
問題は諸侯である。
袁術を討つ大儀はあるが、帝を擁して台頭して来た曹操もまた、彼らには煙たい存在なのだ。
どちらに附くか……。
せめて傍観していてくれれば良いのだが、袁術との戦いの最中に許が狙われるのを怖れていた。
「まあ、もう少しのんびりしていてもいいだろう。俺はまだ蜜月だよ」
操はそう言って、傍らに座した蓮を抱き寄せる。
「そういう事を言うから、お前は誤解されるんだ。蓮だって困っているだろうが」
「ふふ。夏には共に水芙蓉を眺めるのさ。蓮と約した。戦はその後だな」
「……お前、何を考えている? 蓮に託けてないで、教えてくれ」
いくら恋焦がれた蓮と想いを通じたと言っても、そのために天下の事をないがしろにする男ではない。
惇の問いにも、操は酒を片手にただ笑っていた。
「戦は秋以降ということなのか? 刈り入れを待つのもいいが、それまでに攻めて来たらどうする気だ」
軍を動かすとなると、兵士だけの問題ではない。非戦闘員として従軍する男達も数多必要となる。秋の刈り入れには男手が要る。それを避けて戦を行うのは、過去にもあった事だ。
しかし、こちらから仕掛けるのであれば時期を選べるが、敵がそれに配慮するはずもない。
重ねられた問いに、ようやく操が口を開いた。
「わざわざ訪ねて行く相手でもないだろう。向こうから来てくださるなら、ありがたいじゃないか」
後は、それを何処で迎え討つかだが……
惇に言われるまでもなく、操は様々に思案を重ねていた。
「まさか、領内へ引き入れるつもりなのか?」
「そうだよな。出迎えくらいしないと悪いよな」
ふふ。と嗤って操が酒を喰らう。
こういう時の操は惇でも怖いと思う。
その鋭利な頭脳が何を考えているのかは解らなかったが、敵には廻したくない男だった。
「まあいい。お前がその気ならかまわん。俺は敵と戦うだけだ」
「元譲。お前は好い男だな」
操が笑みを向ける。
「お前のその武を頼むのも、そう遠い話じゃないさ」
操は酒器を取り上げると、惇にそれを勧めた。
やはり戦は起こるのだ。
傍らで静かにその遣り取りを聞いていた蓮が、そっと瞳を伏せた。
乱世の英雄である操は、天下を平定するまで戦と縁が切れることはない。
蓮の膝に寛ぎ、詩に心を遊ばせていても、その頭の中では怜悧に何かが考え巡らされているのも解っていた。
蓮は瞳を伏せたまま、そっと操の膝に手を置いた。
「心配するな」
その気持ちが解ったのだろう。
操は優しく声を掛け、上げられたかんばせに頷く。
操は先の戦で矢に当たり、傷を負っていた。
躰に残る古傷にさえ脅えていた蓮は、生々しいそれに恐怖し、がたがたと身を震わせた。戦に行く操を止められぬことは承知しているが、不安でたまらないのだろう。
「天下に曹孟徳の代わりはいない。何があってもこの男を死なせぬよ」
不安そうな蓮に惇も言葉を添えた。
力強いそれに、ようやく蓮がほのかに笑った。
小さく頭を下げる。
「おう。解っておるわ」
惇はそれを受け、蓮との約を堅く胸に納めた。