三十五.
呼ばれて室に入って来た姿に、嘉ははっと目を瞠った。
少年のその印象は、纏う空気さえ変えていた。
蓮は操に招かれて傍らに座ると、明るく清んだまなざしを嘉に向け、先日の心遣いの感謝を掌に伝えた。
深々と礼を示す蓮を、嘉が止める。
「私は友人としてあなたに見舞いの品を贈ったのです。そんな事をしてはいけないよ」
驚いたように貌を上げた蓮が、ぱっと嬉しそうに笑った。
こくりと可愛く顎を引く。
愛らしいと思った。
それから蓮は一生懸命に言葉を探し、その気持ちを伝えようとした。
嘉の贈った品のどこが好きなのか。
どう感じたのか。
その気持ちがどれほど嬉しかったのか。
この少年がこんなふうに物事を語ろうとするのにも驚いたが、品を選ぶのにいろいろと思い迷った嘉は報われた思いだった。
相槌を打ちながら、まだたどたどしい蓮の話と向き合う。
そのまなざしは蓮を見守るように暖かく、蓮もまた嬉しそうに頬を紅潮させながら、愛らしいかんばせを向けた。
そんなふたりが微笑ましく、操は目を細めてそれを眺めた。
蓮はひと通り伝え終えると、操にその貌を向け、にこりと笑った。
郭嘉を連れて来たことへの感謝だろう。
ひとつ頷いて、操も笑みを返す。
「蓮、隣室へ酒を用意させた。そちも付き合え」
こくりと蓮は頷き、席を整えるために先に立った。
「随分と、印象が変わりましたな」
その背を瞳で追いながら、嘉が傍らの操に呟いた。
かつての少年は密やかで、静かに内へ内へと向かっていたように思ったが、今の蓮は違った。全てが外へと開かれているかのような印象だった。
「愛らしいだろう。もうやらぬぞ」
にやりと操が笑う。
このオヤジは……
天下の曹操に、嘉は内心でそんな悪態を吐いた。
招かれた宴席には膳が添えられていた。
「お食事がまだでしたか」
「ああ。文若達のおかげで、孤はメシを食う暇もないぞ」
内政を取り仕切る者達の仕打ちを愚痴りながら、操はそれらを口に運んだ。
「そち達も付き合え」
「はあ……」
気乗りしない様子で嘉がそれに視線を落とした。
その痩身を操がぎろりと睨む。
「そなたはもう少し食べて太らねばダメだ。蓮そちもだぞ」
操は少々なで肩なので華奢に見えるが、その実は鍛え抜かれた鋼のような躰をしている。彼は政治家としても有能だが、本質は武人なのだ。
対して、嘉はひょろりと背ばかり高く、骨の細い男だ。
蓮はもう見たままに華奢で、腰など折れてしまいそうだった。
「孤はそち達に達者でいてもらわねば困るのだ。せっせと食べて、孤を安心させてくれ」
操の家臣は殺しても死にそうにない男達ばかりだ。謀臣達でさえ、この乱世を泳ぎ渡る胆力を感じさせる。
だが、このふたりからはその類のものを感じ取れず、どうにも心配なのである。
操は自分も含め、戦で命を落とすのは仕方がないと思っている。生死を懸けて戦っているのだ。弱い者が死ぬのは当たり前だった。
だが、武人ではないこのふたりが死ぬのは、戦場での命のやりとりではない。彼らを失う事は、想像であっても考えたくはなかった。
操は自分の食事に託けて、ふたりに食べさせたかったのだ。
蓮がそれを口に運び、美味しいと笑った時、操は顔を輝かせて頷いた。
嘉はその様子に君の思いを識る。
ただ、蓮は解るとして、なぜ自分に言うのかと思う。
確かに太れない質だが、別に食が細いつもりもなかった。
まあ、不摂生は不摂生だが……
――この人に言われるくらいだから、少し慎もうかな。
まだ少し嘉は、君に身持ちの事を言われたのを根に持っていた。
操……
蓮が綺麗に頤を上げて呼んだ。
その姿に思わず嘉はえっ…と思う。
今確かに少年は君の名を呼んだ。
口のきけない子だが、はっきりと嘉にも解った。
なぜか、鈴を転がすようなその声さえ、聞こえた気がした。
おそらくは、君自らそれを教えたのだろう。
嬉しそうにそれを受け、慈しむような瞳で蓮と語り合う。
――妬けるなあ。
そんなふたりを眺めていると、自然と笑みが零れた。
「主公。私は少々惜しい事をしましたかな」
「ん?」
嘉に瞳を留めた操が、ふっと笑った。
「そうであろう?」
誇らしげに視線を流す。
蓮だけが、きょとんとそんなふたりを眺めていた。