三十四.
嘉は司空府の回廊に足早に歩を進めていた。
君である曹孟徳に呼ばれ、その公室に向かっているところなのだ。
数日公務を離れていた君は、仕事に復帰したばかりで激務に追われている。ほぼ公室に籠って、山積みの竹簡書巻相手に嵐の決済を行っており、嘉もまだ顔を合わせてはいなかった。
ただ、その噂はいろいろ届いているから、無事にあのどっぷりから脱しているだろうことは、容易に想像がついた。
だが、それでも、実際にその姿を目の当たりにした時、嘉は思わず目眩を覚えた。
――すっかり立ち直ってるよ。
さすがに顔が引き攣る。
こういう男だと解っていながら、あれこれ思案した自分がバカみたいではないか。
なんだか、がっくり来たりして……
一気に疲労を感じる嘉だった。
――でも、ま、いいさ。たまんないよなあ。この人のこういうところ。
にんまりと笑みが零れる。
「どうかしたか?」
「いえいえ。御気色麗しく、ナニヨリでございます」
「おう。孤はいつも元気だぞ」
バリバリ仕事をこなしながら君が返す。
ささやかに込められた嘉の厭味など、気にも止めない。
いつもの磊落な男がそこにいた。
「すまぬがもう少し待っていてくれ。次から次へと仕事が湧いて来て、どうにもならぬ。文若め、孤をここへ閉じ込めて置くつもりか」
ぶつぶつ呟きながらも、その並外れた頭脳は次々とそれらを片付けて行く。
そもそもが繁務に身を置く彼が、何日も仕事を放り出していたのだ。当分は息をつく間もないだろう。
さらに、それが噂の寵童との逃避行と来ては、臣も黙ってはいない。これくらいの意趣返しは受けて当然だった。
「良し。今日はこれでやめだ。後は適当にやっておけ」
立ち上がった操は持っていた竹簡をぽいと投げると、引き止める声を振り払い、ざくざくと室を突っ切った。
彼を呼ぶ近習達の声だけが、その後に虚しく響いた。
――まったく、主公も人が悪い。
嘉は、哀れな近習達を気の毒に思う。
どうせこの君のことだから、ひととおり全てに目を通してはいるのだ。その上で選り分けられているのだから、明確に指示を残すなり、やるべき事は済んだと告げるなり、してやれば良いのである。
だが、彼には往々にしてそういうところがあった。仕える者は、何かと大変なのである。
嘉はひとつ苦笑を残すと、君の後を追った。
彼はどうやら、私室へ自分を連れて行きたいようだ。
「蓮がな、そちを連れて来てくれと、せがむのだ」
「蓮殿が?」
嘉は首を傾げる。
あの少年に持っている印象と、せがむという他動詞は、あまり結びつかなかった。
これは、あの少年にも変化が起きているのかもしれない。そんな事を思った。
喪に服すという名目で公務を離れた君を追って、蓮が別邸へ入ったという話は嘉も聞いていた。
その少年がただの従僕などではなく、君の寵を受ける身であることは、家中で知らぬ者などいない。神をも恐れぬ所業だと、人々は眉をひそめた。
その少年を腕に抱いて、曹孟徳は堂々とこの府へ戻って来た。
ふたりとも腹を括ってしまったのだろうと、その話を聞いた時に嘉は思った。
正直、蓮が君を追った事が、嘉には意外だった。ひっそりとその傍らに佇んでいたあの少年の、どこにそんな強さがあったのだろう。
――いや。それを引き出したのは主公かな。
そして、蓮もまた、哀しみや痛みの中から彼を救けているのだと嘉は思った。
ふと君が足を止め、庭へと視線を向けた。
「奉孝」
「はい」
その後ろで嘉は、慎み深く次の言葉を待つ。
「うん。今だから言うがな、孤は蓮をそなたにと思ったのだよ」
「は?」
何の話かと嘉は思う。
操が庭へと歩を進めた。
嘉もその後に従う。
操は蓮を自分から離す決意をした時に、然るべき者に少年を任せたいと思った。
真っ先に浮かんだのが、この歳若い愛臣である。
蓮は救けられた事もあり、彼を慕っていた。若い奉孝となら、歳の頃も自分よりずっと釣り合う。何よりも、郭奉孝には臣以上の盟友のような思いを抱いており、操はその人物を深く愛していた。譲る。と言うのもおかしいが、彼に蓮を託したかったのだ。
だが、娘を嫁にやるわけでなし、どう言えば良いのか……
操は思い迷って言い淀んだ。
結局、言っても彼を困らせるだけだと解っていたので、この話は口に出さずに終わったのだ。
「蓮はな、そなたを憎からず思っていたようだ」
操の言葉に、この怜悧な男はおおよそを悟ったのだろう。
ふっと笑った。
「主公。過去形にしてもらっては困りますな」
にやりと笑って見せる。
「こやつ。気付いておったな」
操は思わず苦笑を漏らした。
郭奉孝は女にもてる。
はっとするような美男だとか、衣服に気を遣って身を飾り立てているとか、そういう類の男ではないのだが、すらりと背が高く、男の色気があった。
余裕ある物腰に、浮世離れした掴みどころのなさ。女のほうが放って置かない。
彼自身にも自覚があるのだろう。操と違って自分から口説くマメさはないが、不自由はしていなかった。
この種の男は玄人が惚れる。
嘉も別に嫌いではないから、誘われれば断りもしない。
浮名も流れるというものである。
いくら説教を垂れてもちっとも悪びれない、その身持ちの悪さに閉口し、荀文若らが説得して、とうとうこの男を娶わせた。
所帯を持てば、少しは落ち着くと思ったのだろう。
だが、郭奉孝は相変わらずで、気ままに日々を過ごしていた。
「そちの身持ちでは、蓮を泣かすところであった。思い直して良かったな」
操がやり返す。
嘉のほうは、何を言うか。である。
色好みの君に言われるほど、自分はひどくないつもりだった。
さすがに釈然としないものを感じた嘉は、ちょっと気分を害するのだった。