三十.
ふたりはその寮で、甘く濃厚な時を過ごした。
本邸である司空府や別邸と違い、瀟洒だがこじんまりとしたこの館を維持するには極少ない者達で事足りる。そして、蓮を住まわせるつもりだった操は、自分や婆の意に通じた者ばかりをここに配していた。
何の気兼ねもなくふたりは戯れ、気の向くままに食事を摂り、共に眠り、湯の中で睦み合った。
その自堕落振りは婆に呆れられるほどだったが、いつまでもこうして居られぬことは承知している。
今だけ。
その思いがより深い時を刻ませた。
ふたりは寄り添って良く庭を眺めた。
花の盛りのころである。小さいながらも美しく整えられた庭には、ふたりを楽しませるものがたくさんあった。
操は池へも蓮花を配させており、夏になり、花が咲くのを心待ちにしていた。
爽やかな夏の早朝、すっと高く伸びて大輪を開くその様を、彼は好んだ。
ここが、蓮花の寮と呼ばれる由縁である。
「この寮はやはりそなたに相応しい。府の室は室として、ここへも気ままに来るが良い」
美しい庭を眺めながら操が言った。
彼はこの寮を蓮へとの気持ちを、変えてはいないようだ。
押し黙る蓮に、後ろに控えていた婆も声を添えた。
「それは良い。孟徳様に意地悪されたらここに来るのだ。婆も供いたそう」
そう言って笑う。
「孤は優しい男だ。蓮をいじめたりせぬぞ。のお?」
背後から抱き締める操に蓮は微笑い、ようやく頷いた。
「たまには府を抜け出して共に参ろう。そうだ。あの水芙蓉が咲いたら孤は政務を放り出すぞ」
悪戯っ子のように操が笑う。
「そなたを腕に眺める花はさぞ美しかろう」
操はその様を思い描き、心持ち瞳を細めた。
「蓮花は二日目が特に美しいのだ。咲きはじめの密やかさも良い。陽が高くなると花を閉じてしまうのがなんとも惜しいが……。そういえば、誰ぞもそうであったな」
視線を流され、何の事かと蓮は思う。
「孤は明るい光の下で、もっと蓮の花開く様を見たいぞ」
にやりと笑う操に、少年はかあっと頬を染めた。
「ははは。そなたはまさに蓮だな」
暗い池の中で生まれ、空に向かってまっすぐに伸び、蓮花は大輪を開く。泥に育まれてもその花は気高く、清らかだった。
それは、今腕に抱く少年そのものだと、操は思った。
だが、それを口にはしない。
「蓮花は朝露に濡れ 婀娜めいてその身を開く。ふふ。良い詩が出来そうだな」
――もう!
露骨な操に蓮は腕を払い、立ち上がった。
「続きを聞かぬのか?」
そんな操に、ぷいと蓮が拗ねてみせる。
――おやおや。
ふたりのやりとりに婆も笑みを零した。
感情を豊かに表す蓮は、婆から見てもひどく愛らしい。
――これでは孟徳様もかまわずにはおられまい。
満面に喜色を浮かべている操の事も、婆は愛しくてならなかった。
行き掛けた蓮が、ふらりと態勢を崩した。
咄嗟に腕を伸ばして躰を支える。
「蓮?」
操も驚いて腰を上げ、その背に手を添えた。
「大丈夫か?」
蒼褪めた貌で蓮が頷いた。
「血虚だな。控えぬと躰を壊すぞ」
蓮の様子を診た婆は、そう言って心持ち操を睨んだ。
操はそんな婆に苦笑を残し、そっと蓮を抱き上げる。
「どれ。婆はなんぞ滋養のある物を見繕って来よう。孟徳様。蓮を休ませるのだよ」
――解っているさ。
操は婆の言葉に肩を竦める。
天下の曹操も、翠にはなんとなく敵わないのだった。