二.
「遅かったな」
中座していた宴の席にようやく戻った操に、傍らに座した男が声を掛けた。
「見事な庭に心奪われるうち、広い邸に迷ってしまいました」
涼しい顔で操は言い、盃を取り上げた。
男は別段それを詮索する様子もない。話の出来る相手がただ欲しかったのだろう。
彼は周囲を憚りながら、吐き出したかった不安を口にした。
「閣下のご機嫌は、いよいよ険しい」
盗み見るようなその視線の先に、苛々と酒をあおる男の姿があった。
この邸の主にして、天下の頂点に座す男。
そして、宴の主催者であり、操を招いた者でもあるその男は、綾錦で飾りたてた巨体を不機嫌そうに揺さぶりながら、盃を重ねていた。
「何かございましたかな」
苛立つその様を眼にしても、平然と盃を傾ける操に、御辺はあの男の恐ろしさを知らぬのだと、ますます声をひそめて彼は続けた。
「おぬしの居ぬ間にまた舞手を換えたのだ。今度の歌舞もお気に召さないご様子だ」
操は盃を手にしたまま、ちらりと上座に視線を向けた。
確かに鳴り響いている音曲は、極上とは言い難い代物だが、怒りを伴うほどひどいモノでもない。余程の趣味人でもない限り、不満には思わないだろう。
ましてやここは、ざわついた宴の席だ。歌舞など、酔いを彩る肴に過ぎない。
先に舞った者達が気に入らず、下がらせた騒動は操も目の当たりにしたが、単に好みの妓でなかったのだろうと思っていた。
そうでなかったとしたら――
おもしろい。
操は思った。
初めて、董卓と謂う男に興味を覚えた。
突然の不協和音が音曲を切り裂き、場が一気に凍りついた。宴の主がとうとう楽隊に向けて盃を投げつけたのである。
「蓮は何処だ! 蓮を呼べ!」
怒鳴り散らす主に、慌てて近習が執り成しに入った。
「かの者は未だ気色優れず、臥せっております」
「かまわぬ! 薬師ごと連れて参れ!」
「何卒、お支度整うまでしばしのご猶予を」
家人が慌ただしく動き始めた。
間を持たせるように新たな唄女を呼び寄せ、楽を奏でさせる。
董卓も待つ気になったのだろう。座にもたれると、悠々と盃を取り上げ、差し出された酌を受けた。
その姿に客人たちも安堵の息を吐き、宴は再びその華やぎを取り戻して行った。
「懐中の至宝だな」
舐めるように傍らの男が呟いた。
「お抱えの楽士ですかな?」
そらとぼけて操が問うと、先程までとは打って変わった、にやりとした笑みが返って来た。
「噂の美童さ。御辺も耳にした事があるだろう」
天下に君臨する董卓が、今最も寵愛しているのが、年端も行かぬ枕童であるとの噂は、無論操も耳にはしていた。
美妓を数多侍らす彼の心を捕らえる童とは、いったいどれほどのものなのか。一度見てみたいと思っていた者は多いのだろう。露骨な好奇の気配が宴に満ちた。
その空気を割るように、ふわりと風が動いた気がした。
微かな薫りが操のもとへと届く。
従者に抱かれて現れたその姿を、宴内の者たちは息を飲むようにして見つめた。
「美しいな」
忘れていた呼吸をようやくひとつ零し、傍らの男はそう呟いた。
白磁のかんばせは心なしか蒼褪めているが、それがまた被虐的な美しさに拍車を掛けていた。伏せたまなざしに睫が落とす陰りにさえ、匂うような風情がある。
――確かに。
操も心持ち目を細め、それを追った。
ほの暗い回廊にてさえ際立った美貌だ。溢れる灯の中では隠しようもない。
董卓はその傍らに童を迎え入れると、自らの盃を勧めた。
かの麗人が酔いに頬を染める様はさぞ美しかろう。
酔客の視線が集まるその盃を、童は僅かに貌を背けて拒んだ。
避けようとするのを頤に手を掛け、董卓はその双眸を覗き込む。
「瞳が潤んでいるな。熱があるか」
捕らえられたまなざしを、童がそっと伏せた。その眦に、例えようのない色香が滲む。
董卓は口元を歪めた笑みでそれを受けると、傍らに合図を送った。
「一曲所望だ」
差し出された楽器に、童は小さく首を振った。
だが、今度のそれは受け入れられない。
主の意を受け、再び琴を差し出す従僕に押し付けられるようにして、蓮はそれを受け取った。