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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
25/138

二十四.

 はっとして蓮は跳ね起きた。

 びっしょりと汗をかいた(からだ)に、()ちた感触が生々しく残っていた。

 なんだろう……

 強い不安が胸を締めつける。

 傍らに、あの人の姿はなかった。

 こうしていなくなっている事は今までにもあったけれど、蓮は寂しくなってその姿を捜した。

 もう牀には、ぬくもりも残っていなかった。

 かたり。と小さな音を立てて、蓮は隣室への扉を開けた。

 (ひとみ)が無意識に求めた姿は、やはりそこにもなかった。

「目覚めたね。湯を使うかい?」

 婆の言葉に蓮がこくりと(うなず)いた。

 それを手伝いながら、婆は寝汗の残る白皙の額をじっと見つめた。

 微熱がある。

 朝方、操はそう言い置いて行った。

 大事にしてやってくれ。

 想いを込めてその言葉を告げると、彼は一度牀を振り返り、出て行った。

 湯を使い終わった後、蓮はあまり進まない食事を()った。

 沈んだその様子に婆は何度もためらったが、ようやくその話を切り出した。

「のう、蓮。以前主公(との)がお前さんを連れて行った寮を覚えておるか?」

 突然の話に蓮が(かお)を上げた。

「ほれ。主公と馬で帰って来ただろう。あの日の話さ」

 婆の言葉に思い至ったのだろう。小さく蓮が(あご)を引いた。

「そうか。そうか。あれは小さいが良い寮だ。そなたが住まうにはちょうど手頃よな」

 何の事かと蓮は思う。

「主公がな、あの寮をそなたにと申された。婆と一緒に参ろう」

 さあ。と手を取る婆から、思わず蓮はそれを引いた。

 すでに輌の用意も出来ているのだろう。その性急さに蓮は(おび)えた。

「案じずとも、支度は全て整うておる。そなたは身ひとつで移れば良いのだ。今後の事も、何ひとつ心配せんで良いぞ」

 え……?

 蓮の(くちびる)が問い返す。

 これはただの家移りではないのだろうか。

 そして、なぜあの人は、昨日自らそれを告げなかったのだろう。

 チリ…と、小さく胸の奥が(うず)いた。

「蓮。主公はそなたを自由にしてやろうと仰せだ。暮らし向きの事は見よう。だが、今後は全てそなたの思うがままに。許を離れるも苦しからず。恋しい者があらば添わせてやろう。そう仰せなのだよ」

 ――恋しい人と添う?

 突然蓮が立ち上がった。

 扉へと向かう少年を婆が呼び止める。

「孟徳様はおられぬ。しばらくは戻られぬよ」

 ――何処(どこ)

 蓮の瞳が尋ねる。

「別邸だよ。蓮。孟徳様はそなたの事を、それはそれは深く想うておいでだ。そのお前さんを放す決意をなさったのは、余程の事なのだよ。貌を見れば心が揺れる。急な事で戸惑うのも解るが、どうかこのまま行っておくれ」

 婆の言葉に蓮はしばし(たたず)んだ。

 やがてその双眸から涙が(あふ)れ、少年はわっとその場に泣き伏した。

「どうした? そなたらしうもない。なーんも悪い事はない。全て蓮のためではないか」

 だが、蓮は駄々子のように首を振り、慰める婆の膝に(すが)った。

 蓮は嫌なのだ。

 何がそれほど嫌なのかは解らないが、とにかく泣いて()ねる。

 これだけ話してもまだ解らぬのかと、婆はその愚かさを憎んだ。

 なぜいつものように聞き分けぬのかと。

 婆は自分の怒りにはっとする。

「そなた……」

 確かにそれは、いつもの蓮ではなかった。

 この少年は自らの意思など示さない。何を突き付けられても、ただ静かにそれを受け入れて来た蓮が泣いて捏ねるなど、余程の事なのだ。

「……かほどに孟徳様をお慕い申し上げておるのかえ?」

 えっ……?

 婆の言葉に蓮が涙に濡れた瞳を上げた。

 しばらく婆を見つめる。

 ――ああ、そうか。

 溢れて来るこの感情を表す言葉に、ようやく蓮は辿(たど)り着いた。

 同時に、自分の中に在る深い想いにも気付く。

 そんな自分を、なんて愚かなのかと蓮は思った。

 嬉しいという気持ちも、哀しいという思いも、全て愛しいから生まれていたのだ。

 気持ちを伝えるとはどういう事なのか。あの人や阿婆が一生懸命教えようとしてくれたのは、きっとこういう事なのだと、蓮はやっと解ったような気がした。

『蓮はあの方がお愛しい』

『お(そば)に置いてください』

 蓮は婆に文字を伝えると、はらはらと涙を(こぼ)した。

 お願い……

 さらに身振りで懇願する。

 婆はその姿にほだされてしまった。

 自身も涙を浮かべながら膝を折ると、そっと蓮の肩に手を添える。

「そうかそうか。良う解りましたぞ。なればな、孟徳様がお戻りになったら婆がお願いするによってな、蓮はなんも心配せず、今まで通りお待ち申し上げれば良い」

 その言葉に蓮が首を振った。

 このまま離れたら、二度と彼は戻らない気がしたのだ。

『別邸へ連れて行って』

 文字を刻み、再び蓮が懇願を示した。

「蓮。主公は先の戦で近しい方々を亡くされたばかりだ。その主公を追えば、人はそなたをなんと言おうか。孟徳様はな、そなたを根も葉もない(うわさ)の渦中に置いたと、それはそれは悔いておられるのだよ。追うてはならぬ。今は辛抱しておくれ。必ず婆がなんとかしようほどにな」

 蓮にもその意味が解ったのだろう。

 しばらく何かを思い巡らせていたが、やがて頬の涙を払い立ち上がった。

 鏡に己を映して(くし)を取る。

 器用に髪を結い上げた蓮は、婀娜(あだ)っぽい仕草で(かんざし)()した。

「そなた……」

 蓮が何を始めたのかがようやく解り、婆は言葉を失った。

“運命に逆らうには相手を殺すくらいの気概を持て”

 そう言われた時、自分の運命とはそれほど苛酷で(ごう)が深いのかと、蓮は恐ろしく思った。

 誰かを殺すくらいなら、このまま運命に身を任せているほうがいい。いっそ、自分を殺すほうが楽ではないかと。

 だけど、今ならその意味が解る。

 それは、実際に人を殺めろとかそういう事ではなくて、蓮の覚悟の問題なのだと。

 自分があの人を追うには、まさにそれだけの覚悟を持たなければならないのだ。

 この艶姿(あですがた)は蓮の気概だった。

 あの人が、あられもない噂に根も葉もないと心を痛めるのなら、その噂を(まこと)にしよう。

 諂佞(てんねい)と思うならそう言えばいい。

 (へき)童男妾と(さげす)まれるのもかまわない。

 非難も嘲笑も、全て蓮に来ればいい。

 (あで)やかな衣装でその身を整えた蓮は、婆に(まなじり)を流し、嫣然(えんぜん)と笑った。

 ――婆の負けだ。

 一度目を閉じるとその手を取り、婆は別邸へと輌を向けた

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