二十四.
はっとして蓮は跳ね起きた。
びっしょりと汗をかいた躰に、墜ちた感触が生々しく残っていた。
なんだろう……
強い不安が胸を締めつける。
傍らに、あの人の姿はなかった。
こうしていなくなっている事は今までにもあったけれど、蓮は寂しくなってその姿を捜した。
もう牀には、ぬくもりも残っていなかった。
かたり。と小さな音を立てて、蓮は隣室への扉を開けた。
眸が無意識に求めた姿は、やはりそこにもなかった。
「目覚めたね。湯を使うかい?」
婆の言葉に蓮がこくりと頷いた。
それを手伝いながら、婆は寝汗の残る白皙の額をじっと見つめた。
微熱がある。
朝方、操はそう言い置いて行った。
大事にしてやってくれ。
想いを込めてその言葉を告げると、彼は一度牀を振り返り、出て行った。
湯を使い終わった後、蓮はあまり進まない食事を摂った。
沈んだその様子に婆は何度もためらったが、ようやくその話を切り出した。
「のう、蓮。以前主公がお前さんを連れて行った寮を覚えておるか?」
突然の話に蓮が貌を上げた。
「ほれ。主公と馬で帰って来ただろう。あの日の話さ」
婆の言葉に思い至ったのだろう。小さく蓮が顎を引いた。
「そうか。そうか。あれは小さいが良い寮だ。そなたが住まうにはちょうど手頃よな」
何の事かと蓮は思う。
「主公がな、あの寮をそなたにと申された。婆と一緒に参ろう」
さあ。と手を取る婆から、思わず蓮はそれを引いた。
すでに輌の用意も出来ているのだろう。その性急さに蓮は脅えた。
「案じずとも、支度は全て整うておる。そなたは身ひとつで移れば良いのだ。今後の事も、何ひとつ心配せんで良いぞ」
え……?
蓮の脣が問い返す。
これはただの家移りではないのだろうか。
そして、なぜあの人は、昨日自らそれを告げなかったのだろう。
チリ…と、小さく胸の奥が疼いた。
「蓮。主公はそなたを自由にしてやろうと仰せだ。暮らし向きの事は見よう。だが、今後は全てそなたの思うがままに。許を離れるも苦しからず。恋しい者があらば添わせてやろう。そう仰せなのだよ」
――恋しい人と添う?
突然蓮が立ち上がった。
扉へと向かう少年を婆が呼び止める。
「孟徳様はおられぬ。しばらくは戻られぬよ」
――何処?
蓮の瞳が尋ねる。
「別邸だよ。蓮。孟徳様はそなたの事を、それはそれは深く想うておいでだ。そのお前さんを放す決意をなさったのは、余程の事なのだよ。貌を見れば心が揺れる。急な事で戸惑うのも解るが、どうかこのまま行っておくれ」
婆の言葉に蓮はしばし佇んだ。
やがてその双眸から涙が溢れ、少年はわっとその場に泣き伏した。
「どうした? そなたらしうもない。なーんも悪い事はない。全て蓮のためではないか」
だが、蓮は駄々子のように首を振り、慰める婆の膝に縋った。
蓮は嫌なのだ。
何がそれほど嫌なのかは解らないが、とにかく泣いて捏ねる。
これだけ話してもまだ解らぬのかと、婆はその愚かさを憎んだ。
なぜいつものように聞き分けぬのかと。
婆は自分の怒りにはっとする。
「そなた……」
確かにそれは、いつもの蓮ではなかった。
この少年は自らの意思など示さない。何を突き付けられても、ただ静かにそれを受け入れて来た蓮が泣いて捏ねるなど、余程の事なのだ。
「……かほどに孟徳様をお慕い申し上げておるのかえ?」
えっ……?
婆の言葉に蓮が涙に濡れた瞳を上げた。
しばらく婆を見つめる。
――ああ、そうか。
溢れて来るこの感情を表す言葉に、ようやく蓮は辿り着いた。
同時に、自分の中に在る深い想いにも気付く。
そんな自分を、なんて愚かなのかと蓮は思った。
嬉しいという気持ちも、哀しいという思いも、全て愛しいから生まれていたのだ。
気持ちを伝えるとはどういう事なのか。あの人や阿婆が一生懸命教えようとしてくれたのは、きっとこういう事なのだと、蓮はやっと解ったような気がした。
『蓮はあの方がお愛しい』
『お傍に置いてください』
蓮は婆に文字を伝えると、はらはらと涙を零した。
お願い……
さらに身振りで懇願する。
婆はその姿にほだされてしまった。
自身も涙を浮かべながら膝を折ると、そっと蓮の肩に手を添える。
「そうかそうか。良う解りましたぞ。なればな、孟徳様がお戻りになったら婆がお願いするによってな、蓮はなんも心配せず、今まで通りお待ち申し上げれば良い」
その言葉に蓮が首を振った。
このまま離れたら、二度と彼は戻らない気がしたのだ。
『別邸へ連れて行って』
文字を刻み、再び蓮が懇願を示した。
「蓮。主公は先の戦で近しい方々を亡くされたばかりだ。その主公を追えば、人はそなたをなんと言おうか。孟徳様はな、そなたを根も葉もない噂の渦中に置いたと、それはそれは悔いておられるのだよ。追うてはならぬ。今は辛抱しておくれ。必ず婆がなんとかしようほどにな」
蓮にもその意味が解ったのだろう。
しばらく何かを思い巡らせていたが、やがて頬の涙を払い立ち上がった。
鏡に己を映して櫛を取る。
器用に髪を結い上げた蓮は、婀娜っぽい仕草で簪を挿した。
「そなた……」
蓮が何を始めたのかがようやく解り、婆は言葉を失った。
“運命に逆らうには相手を殺すくらいの気概を持て”
そう言われた時、自分の運命とはそれほど苛酷で業が深いのかと、蓮は恐ろしく思った。
誰かを殺すくらいなら、このまま運命に身を任せているほうがいい。いっそ、自分を殺すほうが楽ではないかと。
だけど、今ならその意味が解る。
それは、実際に人を殺めろとかそういう事ではなくて、蓮の覚悟の問題なのだと。
自分があの人を追うには、まさにそれだけの覚悟を持たなければならないのだ。
この艶姿は蓮の気概だった。
あの人が、あられもない噂に根も葉もないと心を痛めるのなら、その噂を真にしよう。
諂佞と思うならそう言えばいい。
嬖童男妾と蔑まれるのもかまわない。
非難も嘲笑も、全て蓮に来ればいい。
艶やかな衣装でその身を整えた蓮は、婆に眦を流し、嫣然と笑った。
――婆の負けだ。
一度目を閉じるとその手を取り、婆は別邸へと輌を向けた