二十一.
男達が戦から戻って来たのは、草木がいっせいに芽生え、華を競う中だった。
戦そのものは規模の大きなものではなかったが、残された爪痕は深かった。
操はこの戦で、長男の子脩と族子の安民、近衛の典韋を失った。
その死を悼んだ曹操は、許に戻って来ると典韋の廟を建て、御霊を祀った。
「婆。いろいろと世話を掛けたな」
ようやく操と対面した婆は、まずはそう言って労われた。
さすがの彼も今回の諸事がこたえているらしく、持ち前の覇気が失せていた。
様々な事が噂として、婆の耳にも届いていた。
「丁の事は許してやってくれ。孤も悪かったのだ」
「婆に謝ってどうなさる」
「そうだな」
操が小さく笑う。
彼はまだ蓮のもとを訪れていない。
早く逢って元気付けてやって欲しいと思ったが、今の操には言えなかった。
「郭祭酒にはすまぬ事をした」
「奉孝?」
婆の言葉に操が首を傾げた。
「お前様に件の話をしたのは、奉孝殿ではないのかえ?」
「あれは何も申さぬが……。そうか、婆は奉孝に話したか」
「思い迷うたのだが、あまりに蓮が塞いでいてなあ。婆はとうとう話してしもうた。奉孝殿にはいろいろ心配りをいただいたぞ。お前様からも、良う礼を言うてくだされ」
「うん、そうか。婆にもすまなかったな」
「それまただ。婆に謝ってどうすると言うに」
「ははは」
操はこの日初めて笑った。
「のう、婆。孤に件の話をしたのは卞だよ」
名家から嫁いで来た丁と違い、即室の卞は元は歌妓であった。自らも苦労を重ねた身である彼女は、さすがにあの日の蓮を哀れに思い、操に話したのだ。
「主公もお悪いのですよ」
事の顛末を話し終えると、やんわりと卞は諭した。
「うん。解っている」
操が静かに頷く。
丁夫人も可哀想なのだ。
妻や愛妾の存在を充分承知で側女に入った卞と違い、十代で曹家に嫁いで来た彼女は、身分ある男が愛妾を置くのは世の常だと頭では思ってみても、夫がいささかそちらのほうが派手な事もあり、心を割り切ることが出来なかったのだろう。
そして、やがて子を産んだ卞に対し、彼女はとうとう子宝に恵まれなかった。
それでも早くに母を亡くした、なさぬ仲の子を引き取り、慈しんで育てていたが、それがこのたびの戦役で若い命を散らした長男の昴だった。
昴は父である操を救けるためにその馬を譲り、敵中に命を落とした。
しかもその事件には、操の女性問題まで絡んでいたのである。
もう愛想が尽きました。
泣き果てた彼女は、実家へと帰ってしまった。
操は自ら迎えに行き、詫びたが、丁氏はそれを受け入れず、正式に離縁となったのである。
丁夫人の心には、あの蓮という少年の事も深く影を落としていたのだろうと、口には出さないが卞は思った。
あの日目の当たりにしたその姿は、あまりにも美しいものだった。
敵わない……
密かに思った者もいただろう。
かの月の君と寵を競うなど、誰にも敵わぬ事だった。
だが、同時に丁夫人は、自分が恵まれていることを思うべきだった。
卞には頼るあてなどない。
おそらくは、あの少年も、それは同じなのだろう。
「あの時のあの子の瞳を忘れる事が出来ませんわ。可哀想な事をしました」
そう言って卞は、その視線を伏せた。
「婆にも話しておくれ」
蓮に訊くに訊けない婆は、操にそう頼み込んだ。
操はそれを受け、卞氏に聞いた顛末をかいつまんで婆に伝えた。
「――女達に何を言われても、蓮はただ静かに瞳を伏せていたそうだ。辛抱強い子だと卞は思ったそうだよ。その蓮が、卞に抱かれる子供の姿に目を止めてな。卞はそのまなざしにはっとしたそうだ。あれは、ああして母に抱かれた事がないのかもしれぬな」
婆は、ひっそりと泣いていた、蓮の小さな背中を思い出す。
父の庇護と母の愛に育まれ、何不自由なく暮らす子供達。自分には決して得られぬそれを目の当たりにして、羨まぬ子がいるだろうか。
「蓮は、そのまま女達が止めるのも聞かずに室を出て行ったそうだ。理由は解らないが、泣いていた事には気がついて、丁も気まずい思いをしていたと卞が言っていた」
あの日の非礼を詫びるために、急に気分が悪くなったと婆は口実した。どうせ解りきっている方便なのだから、取り繕うこともしなかった。
その後丁夫人から見舞いの品が届き、厭味なのかと思ったが、実は本気で心配していたのだろうか。
「おそらくな。あれはそういうやつだったよ」
婆の話に頷いて、操は別れた妻を思った。
「全てはこの曹操の不徳だよ。蓮の事は考えねばならぬな」
そう言うと彼は瞳を閉じ、何事かを思い耽っていた。