十九.
もうひとつ事件があった。
男達が戦に出て幾日かが経った頃、蓮は不意に丁夫人の招きを受けた。
奥の女達で内々にささやかな宴を開くので参られよ。
丁夫人とは曹孟徳の正妻である。
表向きは穏やかな心遣いを装いながら、その実は夫の寵童と聞こえる蓮の値踏みだろう。蓮の存在を気に懸けているのは彼女だけでなく、数多いる寵姫達も同じはずだった。邸の奥に暮らす女達は、表立って見物に来るわけにも行かず、宴に託け、蓮を招こうとしたのである。
はたしてその思惑にまで思い至ったかは定かではないが、蓮は丁夫人と聞いて、心持ち貌を蒼褪めさせて首を振った。
蓮は一度、彼女と遇っていたのだ。
寒梅の香りの下、操の腕にあった蓮は、近付く人影にはっと身を堅くした。
操もそれを眸に捕らえ、妻の名を呟く。
彼女は蓮を見据えながら、感情に震える脣を開いた。
「下がっておいで」
汚らわしいと言わぬばかりだった。
その物言いを操が咎めると、きつく視線を夫に向ける。
「お話がございます。そちは下がりおれ」
重ねられたそれに蓮は頭を垂れ、何か言おうとする操から逃げるように踵を返した。
後で操は妻の非礼を詫びたが、しばらくは奥通いを続けた。彼なりに思うところがあったのだろう。
蓮が表立って嫉妬をぶつけられたのは、それが初めてだった。
蓮を抱いて来た男達は、皆妻子も愛妾も持っていたが、それらと諍いを起こした事はなかった。自ら望んで寵を受けているわけではない蓮には、それを争うという考え事体が存在しない。それは、今も昔も変わってはいなかった。
躰の不調を理由に、婆が宴の誘いをやんわりと断ったが、夫人は再び使者を遣わした。
“夢見が悪く占わせたところ、背の君に災い有りと出ました。その卦を払うには、楽を奏でて厄を払うのが良いとのこと。ひとときなりと足を運ばれて、音曲のひとつも聴かせてください”
妙な厄払いもあったものだが、操への災いを払うなどと口実されては、婆の知恵では断る理由を思いつかない。
「いっそ、司空祭酒にご相談申し上げようか?」
困り果てて婆が言った。
司空祭酒とは郭嘉の官職である。
この愛臣を何かと傍に置きたがる操だが、徐州の情勢が不安定な時でもあり、荀文若と共に、万一の備えとして彼を許に残していた。
何かあれば奉孝を頼れ。
自分の留守を案じ、操は婆にそう言い置いていた。
だが、蓮は首を振った。
こんな事であの人を煩わせたくはなかった。
招きに応じて少しの間辛抱すれば済む事だ。楽をご所望なら奏でればいい。
蓮は心を決め、後日奥を訪れた