十五.
「劉備も随分と嫌われたものですな」
小さな背を見送り、嘉は盃を手にしたまま首を傾げた。
「うむ。あれは人に脅えることはあるが、正面から嫌悪を示すやつではない。ちと気になってな。あるいは、劉備と既知なのかと思ったが、そうでもなさそうだ」
嘉が頷く。
先程君が口にした大耳とは劉備の事だ。
彼は、ふくよかな耳朶を持った耳の大きな男で、ひとめ見ればそれは必ず印象に残り、大耳の例えが解るはずだった。
「事の仔細はこうだ」
操が順を追って話し始めた。
先日の宴の礼に訪れた劉備を、操は歓談ついでに庭に案内した。
その時、蓮の奏でる弦の音が聞こえていた。
別段珍しい事ではない。蓮は無聊にかまけて時折琴を取ったし、操がそれを奨めてもいた。
その音曲に微かな険が含まれた。
珍しい事もあるものだ。
操はそう思った。
蓮もそれを不快に思ったのだろう。ふっつりと演奏を止めてしまった。
「良い音が聞こえていたのに残念です」
劉備が惜しむように言った。
「どうやら、興が乗らなかったようですな」
さらりと返した操に、劉備は思い掛けない事を言った。
「あの董卓の寵童は、音曲の名手だったそうですね」
何を言い出したかと思ったが、そこは曹操である。
「かの都には歌舞の名手が数多揃っていましたが、この許はまだまだ途上の都。比べられては困りますな」
からからと笑ってそんな事を言った。
劉備はそれきりその話題には触れなかったが、操の胸には疑念が残った。
劉備の退出した後、蓮の室を訪ねると、少年は琴を腕に抱き座していた。
何かを確かめるように操の姿に視線を這わせ、それから眉根を寄せて扉をじっと見つめる。
「いかがした?」
気分でも悪いのかと思って尋ねたが、蓮は首を振り、楽器を指して不快を示した。
「先程音に険が混じったな」
問いに肯くと、ひどく嫌な気配がしたのだと指で辿り、庭を指す。
「今も庭にあるか?」
今はない。と蓮は首を振った。
あなたと一緒だった。
操を示した指にもう一方のそれを添える。
「――それが、訊くほどに劉備の事なのだ。そうだな。その時の蓮は、まさに鵺にでも遭うたような貌をしていた」
「ほう」
おもしろいと嘉は思った。
劉備は、外見上は柔和で穏やかな人物である。
だが、その腹の中は案外食わせ者かもしれないと、嘉も内心感じていた。
鵺には正体不明と謂う意味もある。言い得て妙だった。
対して傍らの君は、天下に奸雄と言われ、智謀知略を持って台頭して来た男だが、喜怒哀楽が激しく豪放な質だ。
戦振りにもその性格が良く出ていて、勝つ時は快勝だが、負ける時もまた華々しい。
本人は気付いていないが、基本的に大博打打ちの性分なのだ。
大きく打てば、必然的に負ける時も大きくなる。
そして、大敗に縮こまる事なく、自分の敗因を直視して、次に繋げられる美点もあった。
かと言って、敗け戦に落ち込まないかと言えばそうでもなく、そこがまたこの人の愛らしいところだと、口には出さないが嘉は思っていた。
どうせ博打を打つなら大きいほうがいい。それを勝ちに導くのが臣の謀。おもしろいと思った。
それが、曹孟徳へ仕える気になった理由のひとつである。
これも性分だよなあ。
嘉はくすりと笑いを漏らした。
「なんだ?」
「いえいえ。私は主公のご気性のほうが、はるかに性に合っているなあと思いましてね」
再びくすくすと笑う。
「おそらくは、蓮殿も劉備などより主公のほうがお好みなのでしょう」
そう言うと、曹孟徳は珍しく狼狽した様子で、慌てて酒などあおるのだった。
――ご執心の噂は本当だな。
らしくないその様子に嘉は思う。
蓮と謂う子供が劉備に見せた険は確かに興味深いが、結局曹孟徳が気に懸かっているのは、劉備が見せた蓮への関心ではなかろうか。
だが嘉は、それには触れずに酒で君の盃を満たした。
「確かに蓮殿の存在には、故事を例えに懸念を申す者もありますが、私は聡明な方とお見受けしました。主公のお身の周りでの立ち居振舞いには無駄がなく、控えめで奥ゆかしい。そして、この設え……」
嘉が辺りを見回す。
「私は、これほど心地良い座を知りません」
「ああ、そうだな」
操にも彼の言いたい事が解り、共に辺りに視線を流して頷いた。
「あれは、どうやってこれを知るのだろうな」
操から特別何かを指示されたわけではないが、この宴席は郭嘉と語り合うのに最適に整えられている。全てが測られたようにしっくりとそこにあり、ひどく心地が良いのだ。
無論、そこに媚や打算があるはずもなく、蓮はその感性で無意識のままにそれを識る。
「先程の劉備の話といい、不思議な才だ」
気を読む。と言っても良いのだろうか。
それが曹孟徳の傍にあることは、むしろ悪い事ではないと嘉は思う。
「主公。蓮殿のその才、隠さぬ事です」
蓮と謂う少年を実際に見れば、その憶測に根拠が無い事を誰しもが悟るであろう。
彼の言いたい事が解り、にこりと操が笑みを零した。
自分が心の奥底で密かに思い悩む事を、この男は気付いているのだろうと。
「奉孝。そなたはいつも予を導く」
操は盃を放すと立ち上がった。
「劉備は即日出立させよう。孤も兵を起こす」
嘉は拝を持ってその言を受けた。