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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
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十四.

 訪問者を告げた家人の声に、まず蓮はどきりとした。 

 取り次ぎに扉を開けて、ちらりとその横顔を盗み見る。

 やっぱりあの人だ……

 礼を込めて深々と頭を下げる蓮の前を、衣擦(きぬず)れの音が通り過ぎた。


「奉孝。待ち兼ねたぞ」

 早速操は筆を止め、訪問者を手招いた。

「遅くなりまして」

 慇懃(いんぎん)に礼を取るその男に、にやりと笑みを返す。

(わし)の遣いは間に合ったかのお。捕まらねば盛り場まで捜しに行けと申し付けたが」

「その寸前で捕まりました」

 その(こた)えに操は呵々と笑った。

 郭奉孝。

 操の幕下に参じて、まだ一年に満たないこの歳若い男は、卓越した予見の目を持ち、天才的な智謀家でありながら、品行定まらぬ自由人でもあった。

 才よりも清廉である事を求められた、この時代にである。

 実際彼には、お堅い役人生活が(しょう)に合わず、逐電した経歴があった。

 今はこうして操の重臣として仕えているが、その生活振りは相変わらずで、心配した荀文若などが時折説教を垂れていた。

 中には声高に非難する者もいたが、本人はどこ吹く風である。

 操はそんなところも含めてこの郭嘉を愛し、重く用いていた。

「代わりに孤が美味い酒を用意した。今日はそれで我慢してくれ」

 先に立って隣室へ導くと、用意された酒席を示す。

 互いにまずは酒を楽しんでから、おもむろに操が話を切り出した。


「話は他でもない、劉備の事だ」

「はい」

 予想していたそれに嘉が応える。

 徐州に在った劉備は、呂布との戦に敗れて城を追われ、操に庇護を求めて来た。操はそれを受け入れ、今彼らは許にある。

 だが、劉備が追われたその地は、操の起こした戦の恩恵で手にしたものだ。有り体に言えば、横から(かす)め取られたようなものなのである。

 漢王朝の末裔を自称し、劉姓というだけで王朝の継承を自認する男を、幕僚達は誅すべしと唱えた。操にも、いずれこの男が勢力を持てば、厄介な存在になるという予感があった。

 しかし、郭奉孝がそれに反対した。

 頼って来た者を殺せば、曹孟徳は世の人望を失う。

 その言葉に、操が“我が子房”と言って(はばか)らない荀文若も(うなず)いた。子房とは、漢の高祖劉邦を支えた軍師、張良の字である。

 曹軍参謀陣きっての彼らの意見となれば、操も無下には置かない。即断に受け入れ、劉備を歓待した。

「今もそちの意見に変わりはないか」

 今も。とは、実際に劉備を見た今も。という意味である。

「はい」

 そこには微塵の淀みもなかった。

「あれは、孤の障害となるだろうか」

「劉備は人に仕える男ではありません。力を持てば、いずれ主公(との)の覇業に立ちはだかるでしょう」

 きっぱりと言い切る。

 郭奉孝の予見の目は心眼である。必ず当たる。

 その上で、彼は劉備を殺すなと言う。

「時を待てと言う事か……」

 操が(つぶや)く。

「よろしいではありませんか。こちらにも利のある事です。それに、家中のみなさまにもご都合がありましょう」

 敵対する勢力を互いに消耗させるために、謀臣達は様々な策を(ろう)している。当然、劉備の処遇にも、呂布・袁術といった勢力への想定が含まれていた。

「彼らの策はあまり(うま)くは行かぬかな?」

 どこか他人事のようなその様子に、操が問う。

 この男は、計略も立てるが機を知る者でもある。

 手を抜くと言うわけではなく、郭嘉の気がなんとなく乗らない風情の時は、不思議と思っていたほどの成果が出ない事に、操は気付きつつあった。気のムラのように見えて怒る者もいるが、彼ほど強く機を知る者は、無意識のうちにそうなるのではなかろうかと。

 操の問いに思案する様子をみせていた嘉が口を開いた。

「功はすぐには見えずとも、いずれ利いて来るでしょう。ですが、最後はやはり主公が自ら破らねばならぬ敵です」

「そうか」

 心眼有りか。

 操は小さく笑った。

「それで、何がございました」

「ん?」

 傾けていた盃が止まる。

「わざわざ私を酒場まで追えと言われたのは、何か理由あっての事でしょう」

 笑いながら酒を注ぐ郭奉孝に、(かな)わないなと操は苦笑する。

 が、しばし言を止めた。

 ふと、考える。

「蓮」

 操に呼ばれ、隣室を片付けていた蓮が振り返った。

 静かに歩み寄った蓮は、ふわりと空気のように傍らに座すと、酒を注ぐために白い手を伸ばした。酌に呼ばれたと思ったのだろう。操がそれを(とど)めると、少し怪訝そうな表情を向けた。

「蓮。この男は我が陣営きっての不良軍師でな。この曹操に堂々と苦言を言ってのける憎いヤツだ」

 ――不良軍師はないだろう。

 嘉は内心呟きながら酒を喰らう。

 その様子に操が声を上げて笑った。

 言葉とは裏腹に、まるで憎からぬその様子に蓮は瞳を和ませ、居住まいを正すと深々と嘉に礼を尽くした。

「お元気になられたようで何よりです」

 それを受け、嘉も丁寧な口調を返した。

 穏やかな声音は、蓮の記憶のままだった。

「そういえば、奉孝は蓮を見知っていたのだったな」

「はい。ちょうど通りかかりましたので」

 操が自由にさせているせいもあるが、この男は万事において型破りで、好き勝手にあちこちうろついては、誰(へだ)てなく言葉を交わす。冠もつけず平服のまま、ひとりぶらぶらしているから、後から祭酒だったと知って腰を抜かす者も少なくない。

 もちろん操は、その裏にある怜悧な思考も、驚くほど鋭い洞察力も、高く評価しているからこその野放しである。

 許への道中で少年と行き合った事は、話のついでに簡素に伝えられてはいたが、蓮については尋ねもしない。事情など訊かずとも、供周りやお抱え薬師(くすし)の姿に、嘉はおおよそを悟った事だろう。

 もたらされる情報から正確に状況を見極めるのは、彼の卓越した才のひとつだった。

 蓮は、嘉が覚えていてくれた事が嬉しいのか、ほのかに目元を染め、気恥ずかしそうに(うつむ)いていた。

 その風情をひととき楽しみ、操は口を開いた。

「蓮。あの大耳の事だが」

 何の事か解らないのだろう。その問いに蓮が首を傾げた。

「先刻孤と庭にいた男の話だ」

 美しいかんばせに、(かす)かな嫌悪が浮かんだ。

 思い出したくないのか、嫌そうに首を振る。

「そなた、何を感じたのだ?」

 蓮が再び首を振った。

 わからない。

 その瞳が語る。

 しばらく待つと、ようやく蓮は細い指で文字を描いた。

(ぬえ)

 想像上の妖怪である。

「劉備が鵺だと言うのか?」

 思い掛けないそれに操が問うが、蓮はまた首を振った。

『不知』

 指がなぞる。

 蓮は劉備と()う男を知らないのだ。だから、彼自身の事を鵺と言ったのではなかった。

 ただ、なぜか解らないがとても嫌な気配を感じた。その説明出来ない心情を、誰も見た事はないが嫌悪を持って語る想像上の妖怪に例えたのだろう。

「もう良い。今日はもう下がって良いぞ」

 その時の気配を思い出したのか、蒼褪(あおざ)めた(かお)で微かに震える蓮に、操はそう声を掛けた。

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