十三.
操が蓮と謂う美貌の少年を傍に置いたことで、婆が心配したように、人々は様々な憶測を囁いた。
家中でも蓮の存在を懸念する声が高く、それを案じて夏侯元譲が室を訪れた。
「孟徳。蓮とか謂う子供を離せ」
座すなり、惇は言った。
「藪から棒になんだ?」
書から顔を上げもせず、操が応じる。
「家中の声が聞こえぬ御主ではなかろう。末は鄧通か董賢かと人は噂しとる」
共に帝の寵愛を受け、地位と富を与えられた倖臣である。董賢と哀帝の故事からは、断袖という男色の別称も生れた。
「俺はそんなふうに見えるか?」
初めて顔を上げ、にやりと笑う操を、ふん。と惇は鼻であしらった。
「お前の心配などしとらんわ」
「それはひどいな」
操が苦笑する。
「あれはそれほど覇気のある子じゃないよ」
「覇気の問題ではなかろうが。お前は好き勝手して結構だが、噂の的になるほうはたまるまい」
「ふむ。一理あるな。だが、蓮がいると諸事はかどるのだ。遠ざけると何かと不便だな」
「その子を抱いたのだろう?」
「露骨に言うなよ。俺は結構内気なんだぜ」
「どのツラ下げて言いやがる」
ははは。と操が声を上げて笑った。
「元譲。お前の豪も才だが、蓮の美もまた才だ。それに、蓮は佞臣と言うほど懐いちゃいないよ」
これは少々愚痴だろうか。親しい彼の前では、ついそんな言葉も出てしまう。
惇が口を開き掛けた時、隣室で何かの割れる音が響いた。
操が筆を離して立ち上がる。
「いかがした?」
近付く操に、慌てた様子で蓮が手を着いた。
「玻璃を割ったのか。怪我をしなかったか?」
破片に触れたのではと案じて手を取ると、蓮はカタカタと小さく震えていた。
操は蒼褪めたその頬を掌で包み、蓮をそっと抱き上げる。
「危ないからそなたは手を触れるな。後で片付けさせよう」
折檻を受けた事でもあるのだろうか。こういう時の蓮は哀れだった。
惇も、儚く頼りない少年の姿に黙り込む。
いつからそこに居たのだろう。話は聞こえてしまっただろうかと、配慮を欠いた己の言動を悔やむ思いだった。
「元譲。堅い話はやめて酒でも呑もう」
操は傍らの惇を振り返り、告げると、蓮を抱いたまま設えられた席へと歩を向けた。
「いや。元譲が一緒では蓮が脅えるかな」
ふと足を止めて呟く操に、惇が気色ばむ。
「何を言いやがる」
言い捨てた惇は大股でずかずかと酒席に向かうと、どかりと座して、さっさと酒をあおり始めた。
操はその姿に笑みを零す。
数多打ち揃う家臣達の中で、操にこういう態度を取れるのは惇だけである。
操と惇は、姓は違うが従兄弟同士で、幼少時から互いを良く知っている。夏侯家は、宦官曹騰の養子だった操の父の実家なのである。
子供のころから乱暴者と名高かった惇と、不良少年として鳴らした操は、未だに悪ガキ仲間のような親しさがあった。
だが、惇が人前で臣下としての節度を越えることは決してない。
豪胆だが奢ることもなく、飾り気のない気質を操は愛し、惇には絶対の信を置いていた。操の寝室や輌の中に、自らの意思で出入り出来る臣は彼だけだった。
「蓮。将軍に一献勧めよ」
花が座すような風情で傍らに侍り、優雅な手つきで酒を酌ぐ少年を、惇はしげしげと眺めた。
「元譲。そう恐ろしい顔で睨むものではない」
「睨んでなどおらんわ!」
言い返す惇に操が笑う。
武人にしては小柄で華奢な印象の操と違って、惇は天下にその名を轟かせる猛者らしく、偉丈夫で武骨な男だ。
その厳つい顔が隻眼のために、さらに凄みを増していた。
惇は、濮陽の激戦でその左目を失っていた。
当時は操も心痛して薬師など遣わしたが、今ではそんな冗談も言えるようになった。
「そうか? 元が厳ついのだから少しは気を遣え。花を見るには花を見るなりの表情があろう?」
操は蓮を引き寄せると、その頤に手を掛ける。
「これは、めったに見られぬ徒花だぞ」
操の悪ふざけに蓮はすらりと腕を抜け、座を立った。
「おや、怒らせてしまったかな」
笑う操に、やれやれと惇は盃をあおる。
座を離れた蓮は室の隅にもたれると、弓を取り、弦を奏で始めた。
「良い音だな」
「お前にも解るか」
「俺はお前のように詩人ではないが、良いものは良いと思う。そして、美しいものも美しいと感じる」
「あれは美しかろう」
「美しい。だが、お前の言う通り、徒花だ」
惇の言葉に、操はふっと笑った。
「あれは頭の良い子だ。文字を教えると瞬く間に覚えた。書こうとはしないが、粗方は読めるようだ」
「口がきけないというのは本当か?」
「本当だ。それゆえに重宝されて来たのだろう」
貴人に奥深く囲われるということは、それだけ機密に触れる機会も多い。それを知る術のない者、洩らす術のない者が、重宝されるのは当然の事だった。
もっとも、重宝という言葉は、蓮にしてみれば適切ではないだろう。
「蓮。その音で元譲を惑わせてみせよ。見事成したら褒美は望むままだぞ」
「バカ! お前は何を言い出すんだ」
突然の操の言葉に、惇は驚いて声を上げる。
楽を止めた蓮は、しばし操を見据えた。
――美しいな。
操はその様に笑みを零す。
微かに高揚したかんばせは、また格別のものだった。
蓮はすっと立ち上がると、扉を開け、庭に向かって席を取った。
奏でる音色が一変した。
「うっ……」
思わず惇が唸る。
これがあの子の才か……
傍らにいる男が、とにかく才ある者を愛でる君であることは、惇も良く知っている。
美しさも才だと彼は言った。だが、これだけの奏者は、望んでも簡単には手に入らないだろう。
笑みを持って酒を楽しんでいた操が、はっとしたようにそれを離した。
「しまった。蓮、止めよ。これでは邸中の者が眠れなくなってしまう」
操は足早に蓮に近付くと、弦を番える腕を抑えた。
「もう良い。孤が悪かった」
蓮の双眸から涙が溢れた。
それを振り払うように身を翻す。
逃げて行く小さな足音が遠ざかった。
「泣かせてしまった……」
呆然とその背を見送る操に、再び惇は溜め息をついた。
この乱世に兵を率い、策を凝らし、敵を破って台頭して来たこの男は、詩を吟じ、月に舞い、兵法に注釈をも加える。百才を持ち、奸雄とまで言われる曹孟徳が、なぜこうも不器用な真似をするのか。
「行ってやらずと良いのか」
酒の席へ戻った操に惇が声を掛ける。
「しばらく相手をしてもらえないさ」
「なぜそう回りくどい事をする。優しくしてやれば良いではないか」
「おや、蓮を遠ざけろと言いに来たのではなかったか?」
「それはそうだが……。何やら哀れだ」
そんな惇に操は笑みを零した。
まっすぐで心の曇りのない惇は、胸の内を素直に見せる。
この男だからこそ、蓮を逢わせたのだ。
その深い情は、蓮と謂う直ぐな質を愛するだろうと。
「孟徳。ぬしの計略ではあるまいな?」
おもむろに惇が身を乗り出し、尋ねた。
ぎろりと隻眼が睨む。
「あン?」
「わざと蓮を泣かせて、俺の同情を引こうとしたわけでは、ないな?」
惇の言葉に操が声を上げて笑った。
「同情したのか?」
「いや、そうではない。同情ではないが……」
「ないが、なんだ?」
言い淀む惇にもう一度笑う。
が、その笑みが消えた。
「あれは、もっと己の感情を出す事を知るべきだ」
「だからと言って、わざわざ怒らせる事もあるまい」
「ふふ。怒った蓮は美しい。それはそれで満足しているのさ」
操が酒を差し出す。
それを受け、ふと惇は蓮の消えた方へと視線を走らせた。
「足が少し悪いようだな」
「ああ。解ったか。薬師に診せたら骨折の癒が良くないらしい。何があったのか……」
蓮は僅かに右足を引き摺っている。
歩くのには支障を感じさせないが、駆けると足音が乱れた。
操が雒陽で見た童の蓮には、足が不自由な様子はなかった。
あの宴の時――
機嫌を直した董卓は、蓮を腕に抱き、その耳朶を舐りながら何かを囁いていた。
胸元に手を差し入れられ羞恥に身を捩る蓮を引き寄せると、強引に脣を奪い、宴に集った者達に見せつけるように董卓は舌を絡ませた。
身を震わせる蓮の耳元に、再び何事かを囁く。
蓮は耐えられなくなったのだろう。董卓の腕から逃げ出すと、ぱたぱたと駆けて行ったのだ。
あの時の蓮の足は健常だったから、それ以降の傷である。
戦乱の中で負ったか、あるいは折檻か、逃さぬために故意に折られたか……
口には出さないが、お互いそんなところだろうと想像がついた。
「……惨いな」
戦場を駆ける男が、本気で呟いた。