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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
136/138

百三十五.

 視線を向けた司空府の庭先には、赤味を帯びた大きな月が昇り始めたところだった。

 (かすみ)がかっているのか、どこかどんよりとしたそれは、その重さゆえに登りきれぬかのように樹の枝に()かっている。針葉樹の枝枝から(のぞ)(あか)い月は、戦場の篝火(かがりび)を嘉に思わせた。

「これより先は、軍師酒祭様のみと申し遣っております」

 導いて来た家人が膝を着いた。

 手燭を受け渡し、下がって行く背が薄暗い回廊に遠ざかるのを見送ると、嘉は進む先へと(あか)りを(かざ)した。

 楼の階段からは、細い琴の調べが(くだ)っていた。

 少しそれに耳を傾け、嘉は来訪を知らせる鈴を鳴らす。

 琴の()は一度途切れたが、嘉が登る階段が(きし)むのを確認したかのように再び響き始めた。


「見事な月だな」

 楼に差し込むおぼろげな光の中で、その人は言った。

 その視線の先に、丸く満ちた月が大きく広がっている。

「私には、何やら物悲しく見えます」

「そなたも存外詩人めいた事を言う」

 大きく糸を()いて君が笑った。

 ぼんやりとした月に照らされたその(かお)は、やはり嘉には物悲しく映った。

「翠に逢ったか」

「はい……」

「このたびの事が、余程こたえたとみえる」

 蓮が亡くなってから、彼女は寝込むようになっていた。

 高齢なのもあるが、やはり少年の死が響いたのだろう。

 それを伝え聞いて嘉も翠を見舞ったが、面影もないほど沈んだおももちで、痩せ細った腕を嘉へと伸ばした。

「婆は鬼だ」

 蓮を河へ(ほおむ)った事を、彼女は悔いていた。

 繰り返し、繰り返し、自分は鬼だと嘆き、泣く。

 あんな可愛らしい子を(つめ)たい河に沈めてしもうた。

 婆は鬼だと……。

 仔細(しさい)(イク)からも聞いた。

 思いも掛けず、その最期を(おく)ることとなったその人は、端整な貌に僅かに疲れを(にじ)ませて、淡々とした口調でそれを語った。

 だけど、始終伏せがちだったその視線が、時折(まばた)きを繰り返しては赤く潤んでいたのを嘉は知っている。


 涙ながらに蓮を横たえた小さな舟が河辺に運ばれても、翠は名残を惜しむように何度も何度もその髪を撫でていた。

 まるで眠っているかのような穏やかな死に装束が、彧も脳裏から離れないと云う。

「さあ、送ってやっておくれ」

 袖で涙を拭い拭い、婆が言った。

 彧は、気丈に振る舞う彼女を気遣い、本当に良いのかと重ねる。

「婆は蓮に頼まれたのだもの。時を()ても、名残惜しいばっかりだ」

 言う(そば)から涙を(こぼ)し、おいおいと婆は泣く。

 そんな彼女を見ているのも(つら)く、彧は舟を()かせた。

 河の中程で放たれたそれは、流れに乗ってするすると水面(みなも)を走った。

 舟底に穴を穿(うが)ってあるから、いずれそれは沈む。冷たい河の底へと降りて行くのだ。

 涙をこらえて見送る彧の脇を、翠が抜けた。

 流れて行く舟を追って、老いた脚がヨロヨロと河原を駆ける。

 慌ててそれを追った彧は、足場の悪さに崩れた婆の傍らへと膝を着いた。

「誰か。誰か。舟を()めておくれ」

 早よう、早ようと、その腕が舟を追う。

「ああ、行ってしまう。行ってしまう……」

 蓮。蓮。と翠が少年の名を呼んだ。

 流れに運ばれて行く小さなその影は、やがて涙に(かす)れて水の色へと(とけ)けて行った。

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