百三十五.
視線を向けた司空府の庭先には、赤味を帯びた大きな月が昇り始めたところだった。
霞がかっているのか、どこかどんよりとしたそれは、その重さゆえに登りきれぬかのように樹の枝に懸かっている。針葉樹の枝枝から覗く赫い月は、戦場の篝火を嘉に思わせた。
「これより先は、軍師酒祭様のみと申し遣っております」
導いて来た家人が膝を着いた。
手燭を受け渡し、下がって行く背が薄暗い回廊に遠ざかるのを見送ると、嘉は進む先へと灯りを翳した。
楼の階段からは、細い琴の調べが下っていた。
少しそれに耳を傾け、嘉は来訪を知らせる鈴を鳴らす。
琴の音は一度途切れたが、嘉が登る階段が軋むのを確認したかのように再び響き始めた。
「見事な月だな」
楼に差し込むおぼろげな光の中で、その人は言った。
その視線の先に、丸く満ちた月が大きく広がっている。
「私には、何やら物悲しく見えます」
「そなたも存外詩人めいた事を言う」
大きく糸を掻いて君が笑った。
ぼんやりとした月に照らされたその貌は、やはり嘉には物悲しく映った。
「翠に逢ったか」
「はい……」
「このたびの事が、余程こたえたとみえる」
蓮が亡くなってから、彼女は寝込むようになっていた。
高齢なのもあるが、やはり少年の死が響いたのだろう。
それを伝え聞いて嘉も翠を見舞ったが、面影もないほど沈んだおももちで、痩せ細った腕を嘉へと伸ばした。
「婆は鬼だ」
蓮を河へ葬った事を、彼女は悔いていた。
繰り返し、繰り返し、自分は鬼だと嘆き、泣く。
あんな可愛らしい子を凍たい河に沈めてしもうた。
婆は鬼だと……。
仔細は彧からも聞いた。
思いも掛けず、その最期を逝ることとなったその人は、端整な貌に僅かに疲れを滲ませて、淡々とした口調でそれを語った。
だけど、始終伏せがちだったその視線が、時折瞬きを繰り返しては赤く潤んでいたのを嘉は知っている。
涙ながらに蓮を横たえた小さな舟が河辺に運ばれても、翠は名残を惜しむように何度も何度もその髪を撫でていた。
まるで眠っているかのような穏やかな死に装束が、彧も脳裏から離れないと云う。
「さあ、送ってやっておくれ」
袖で涙を拭い拭い、婆が言った。
彧は、気丈に振る舞う彼女を気遣い、本当に良いのかと重ねる。
「婆は蓮に頼まれたのだもの。時を経ても、名残惜しいばっかりだ」
言う傍から涙を零し、おいおいと婆は泣く。
そんな彼女を見ているのも辛く、彧は舟を牽かせた。
河の中程で放たれたそれは、流れに乗ってするすると水面を走った。
舟底に穴を穿ってあるから、いずれそれは沈む。冷たい河の底へと降りて行くのだ。
涙をこらえて見送る彧の脇を、翠が抜けた。
流れて行く舟を追って、老いた脚がヨロヨロと河原を駆ける。
慌ててそれを追った彧は、足場の悪さに崩れた婆の傍らへと膝を着いた。
「誰か。誰か。舟を停めておくれ」
早よう、早ようと、その腕が舟を追う。
「ああ、行ってしまう。行ってしまう……」
蓮。蓮。と翠が少年の名を呼んだ。
流れに運ばれて行く小さなその影は、やがて涙に掠れて水の色へと融けて行った。