百三十三.
「主公……」
少し、憚るように、嘉がその背後から声を掛けた。
「うん。奉孝か」
そう応えたものの、彼はそのまま眼下に広がる陣を見つめていた。
やがて振り返り、書を差し出す。
「文若殿からですか」
「ああ。やはり兵を退くなと返して来た」
呂布は曹軍との戦で三敗を喫すると、兵を退いて城に籠っていた。
籠城という、およそ似つかわしくない戦を選んだ敵将に、一見勝機などないように見える。
だが、季節は冬だった。
遥々この地へ行軍して来た兵士達は、里心も着き始めるころである。冬の寒さに凍えれば、ますますそれは募り、士気も衰えることだろう。
兵を退くのなら、今が潮時であった。
しかし、ここで呂布を抜かなければ、この先袁紹と事を構えるのは難しくなる。
君とてそれは解っているのだ。
そして、自らの心を後押しさせるために荀文若の言葉を欲した。
彼は、その思いに副った文を届けて来たに違いない。
それは、読まなくても解っていた。
「続けて早馬が参ったようですが」
君は小さく首を振ると、再び嘉に背を向けた。
「蓮がいよいよダメらしい」
その視線はじっと戦場に注がれている。
だが、この時その瞳が何を映していたのか、嘉にさえ判らなかった。
「文若殿が?」
知らせて来たのかと、続けたかったが声が掠れた。
「あいつらしからぬ、簡素な文だ。却って蓮の重篤さが伝わって来るわ」
君の言葉は自嘲するような響きを含んでいた。ままならぬその身を、蔑んでいるのかもしれない。
嘉は、立て続けに早馬を走らせた彧の心情を思った。
兵を返すなと、君を戦場に留める文を送ったばかりの彼は、病篤い蓮の知らせを、どんな思いでしたためたのか。
「そちも文若と同じ意見だな」
君は嘉の手にある文を指す。
「私の考えはすでに申し上げました通り、変わってはおりません。今が呂布を捕らえる好機と思っておりますし、主公の天下統一のためにも是非とも獲っていただきたい戦です。ですが……」
「孤が兵を返したいと申せば従うか。私情を挟むな、奉孝」
「私情ではありません。主公がそうなさるのなら、私はまた次の戦を組立てるまでです。どんな状況でも主公を勝たせるのが私の役目。主公は、ご随意になされば良いのです」
――そなたは孤を許すと申すのか。
操は込み上げるものをこらえるように空を仰いだ。
決して私情を挟んではならぬと自らに言い聞かせて来た。
哀しみに、心を揺らしてはならぬと。
だがそれを、彼は許すと言うのだろうか……
「奉孝。敵の護りは堅く、我が軍の状況は決して良いものではない。それでもそなたは、これを好機と申すか」
「はい。城を落とすことは叶います。……主公が、このまま留まると仰せなら、それでも呂布を撃ち破らんとのご決意ならば、策がございます」
「――水を、引き入れるか」
「御意」
呂布の立て籠もる城は、天然の流れを堀と護られる、攻めるに堅く、護るに易い要害だった。
そこを攻めるには、水攻めが第一に考えられる。
判りきっているそれを行わなかったのは、その代償があまりに大きいからだ。
城とは街である。
城が水に浸かるとは、街ひとつが水に沈む。
全てが汚水に曝され、冷たい冬の水に人々は休む場所さえ失う。攻め落とした後の復興にも、人々の心が癒えるのにも、多くの時間が要るだろう。
それを解っていて、彼はそれを献策すると言う。
この厳しい季節に兵を退かず、最愛の人の死を越えて戦う決意があるのなら、心を鬼にして、それを進言すると言うのだ。
「奉孝」
「はい」
「また悪名が広がるな」
君はそう言うと、薄く笑った。
それを癒す最大の人を、この人は失おうとしている。
自分はそれを、どれだけ埋めて行けるのだろうか?
途方もないそれに、嘉は気の遠くなる思いだった。
だが、天を仰ぐ時間は今はない。
「主公。差し出がましいことながら、これは郭嘉めの進言」
きっぱりと言い切るまっすぐな瞳を受け止め、操は沁み透るように笑った。