百三十一.
「……蓮の気持ちを解らぬと言うておるのではないぞ。だが、冷たい河にそなたを沈めるなどと、そんな事、とても婆には出来ぬ。ましてや、孟徳様がお許しになるはずがあるまい」
『蓮が死んでも、操に知らせてはダメよ』
「蓮……」
『蓮がこの先悪くなっても、操には決して知らせないで』
「そなたが戦場の孟徳様を案じて言うておるのは解る。だが、孟徳様の身にもなってみやれ。死に目にも逢えぬ。形見も遺さぬではあんまりではないか。その上骸を河に沈めたなどと、どれほど哀しまれよう」
『……蓮がここに居ると、あの人を留めてしまうの。操にはもっと大きな事がある。いつまでも蓮に捕らわれて、ここに居てはいけないの。操が哀しむくらいなら、いっそ蓮の記憶を消してしまってかまわない。忘れられるのはとても辛いけど、操が哀しむのはもっと嫌なの』
蓮の瞳から、こらえていた涙が零れた。
『ごめんね。ごめんね。たくさん優しくしてくれたのに、こんな嫌な事頼んで。大好きなあなたに辛い思いをさせるのは、身を切られるようにせつない。でも、翠媽にしか頼めないの。だって、蓮には他に誰もいないのだもの……』
手を取ったまま泣き崩れる蓮に、翠は言葉を失した。
「……蓮。……おお、蓮。そのように泣くな。のお、泣いてくれるな……」
背を撫でる婆の声もまた、涙で滲んでいた。
それに頷きながら、蓮は頬を拭う。
『泣いたりしてごめんね。蓮が泣いたらダメよね』
涙を残したまま笑う。
『こんな事言ったけれど、諦めてしまったわけではないのよ。蓮はちゃんとがんばるから。ただ、阿婆に聞いておいて欲しかったの。もしもって、言ったでしょう?』
翠の瞳を覗き込む。
『心に留めて、くれるよね?』
そんな蓮に、仕方なく婆は笑った。
「そなたにそこまで言われては、婆は拒めぬわい。だがな、それも孟徳様が戻られるまでだぞ?」
『操には言わないでよ。操が怒ると怖いもの』
小さく身を縮める。
「怒られるを承知で言ったか。蓮は困った子だな」
目を細めながら、婆は蓮の頭を優しく撫でた。
「疲れたのであろう。少し休んだが良い」
貌に浮かぶそれを察し、夜具を掛け直す。
蓮は蒼褪めた頬で小さく頷くと、そっと手を差し伸べた。
握って欲しいのが解り、婆はしばらくその手を取って傍らに付き添った。
操……。
やがて眠りに落ちて行った蓮の脣が小さく呟いた。