百三十.
「おや。起きていたね」
婆が帳から顔を覗かせた。
蓮はこくりと肯き、にこりと笑う。
「気分が良いようだな。そんなら躰でも拭いてやろう」
踵を返そうとするのを蓮が引き止める。
婆はそれを受け留め、そっと掌に包み込んだ。
血の気の引いた蓮の指先は凍るように冷たく、蒼く沈んでいた。
阿婆。
小さく脣を動かし、蓮が呼んだ。
「うん? なんぞ話でもあるのかえ?」
可愛らしく顎を引く蓮に、婆は、どっこらしょ。と呟きながら腰を降ろした。
『お願いがあるの。とっても大事な話。これから蓮の話す事を良く聞いて』
その真剣なまなざしに、少々戸惑いを覚えながらも婆は頷く。
『蓮が死んだら……』
綴られた文字に、思わず婆は手を引いた。
「縁起でもない。そんな話なら婆は聞かぬ」
蓮は首を振り、強引に婆の手を取った。
『大事な話なの。阿婆にしか頼めないの。お願いだから、話を聞いて』
滲む涙に、婆は浮かせていた腰を牀へと戻した。
「……そんなら、万が一の話としてだぞ?」
蓮はひとつ頷くと、再び文字を綴った。
『それなら、もし蓮が死んだら……』
「一度で良いわい。まったく、縁起でもない」
ぶつぶつと呟く婆に小さく笑い、続ける。
『蓮の物は何も残さないで欲しいの。衣も夜具も全て処分して。髪のひと房も、操には遺さないで』
何を言い始めたのかと、婆は蓮を見つめた。
「……それは、形見を遺さぬと言うことかえ?」
『是。使える物は誰かにあげてもかまわないけれど、形見として渡してはダメ。そして、操には何も遺さないでください』
どういうことだろうかと婆は首を傾げる。
『それから、蓮の骸は何もしなくて良いから、そのまま河に沈めて』
「何を言うておるのだ。そんな埋葬など、婆は聞いた事がないぞ」
『操がね、命は繋がっているって教えてくれたの。命を食べてみんな生きているけれど、それは命を受け継ぐ事だって。他の命を奪って生きているのだから、その分まで一生懸命生きなければならないって。蓮の躰は魚に食べられて、きっとその魚がまた誰かを育んでくれる。蓮はそうやって受け継がれて行きたいの。そして魂はね、そのまま河を下って海を見に行くんだ。操が教えくれたんだよ。あの大きな河をずーっとずーっと下って行くと、大きな大きな海があるんだって。蓮はまだそれを見た事がないから、きっと見に行くんだ。もしかしたら、海の大きな魚になれるかもしれない。そうしたら、阿婆のお話ししてくれた海の宮殿を探しに行くの』
にこりと蓮は、透き通るような笑みを零した。