百二十八.
冬晴れが美しい朝だった。
明け方の急激な冷え込みに凍っていた世界が冬の陽射しを授けて融け出すと、そこは、雨上がりのような煌きに満ち溢れた。
蓮は婆に頼み込んで帳を開けてもらうと、瞳を細めて束の間の陽光を楽しんだ。
蓮は雨上がりの庭が大好きで、水滴がキラキラと陽の光を反射させるようになると、居ても立ってもいられずに操の衣を引いた。
しきりに庭を指す蓮を笑い、彼もまた眩しそうにそれを見上げた。
ぬかるんだ庭を歩くと庭師も困るし、沓が汚れて婆も怒るのだけれど、時には泥まみれになるまで共にはしゃぎ、ふたり一緒に叱られた。
水溜りが楽しい事も、霜を踏む事も、雪と遊ぶ事も、みんな操が教えてくれた。
人に思いを伝える事も、その術も、誰かを想う事も……。
操がいなければ、蓮は何も知らずにただ死んで往っただろう。
操に何か返したい。
蓮は、強く願うようになった。
許に来て、操のもとで過ごすようになってしばらくすると、蓮は“ちゃんとした人になりたい”と思うようになった。
操みたいな……
でもそれは、操みたいに立派にとか、地位がある人にとか、そういうのじゃなくて……
それはあまりにも漠然としていて、蓮には良く解らなかったけれど、操が自分が傍にいる。蓮はなんだって出来ると言ってくれた時、何かが拡がった。
蓮は一生懸命考えた。
自分は何がしたいのだろう。
どうなりたいのだろう。
最初は非力な自分をなんとかしたくて、夏侯将軍にこっそり剣を教えてくれと頼んだ。
将軍みたいになるのは無理でも、せめて操の盾にくらいにはなれたらと思ったのに、将軍はお前には無理だと取り合ってもくれなかった。
馬も習いたいと思っていた蓮は、がっかりと肩を落とした。
そんな蓮に将軍は言った。
乱世は俺達の代で終わる。
平時に必要なモンは学問だ。
剣よりも筆を持て。と……。
将軍の言ってる事は解ったけれど、やっぱりちょっと落ち込んだ蓮は、郭大兄にそれを打ち明けた。
哥哥は、ふんふんと蓮の話をひととおり聞いた後、それなら時間のある時は公室へおいで。と言った。
良く解らないまま言われた通りにすると、居合わせた人達が何くれと蓮の相手をしてくれた。
そこで様々な事を教わりながら、ようやく蓮は自分の求めているものへと辿り着いた。
そうか。蓮は操の役に立つ人になりたいんだ。
哥哥みたいに……
蓮にとって彼は、明瞭な未来像だった。
たくさんたくさん勉強したら、少しでも哥哥に近付けるかな?
蓮はせっせと本を紐解き、学んだ。
覚える事は苦ではなかった。
帝の傍近くに侍る可能性を秘めて育てられる子供達は、幼いころから非常に厳しい躾を受ける。言葉使いから立ち居振る舞い、儀礼や定まり事など、事細かなそれらを全て叩き込まれ、余暇の相手も務められるよう六博や囲碁のような複雑な遊戯も覚える。さらに難解な歌舞曲をいくつも仕込まれ育つのだ。そんな日常の中でも物覚えを誉められるほど、蓮は記憶力が良かった。
だけど、記憶するのと理解するのとは別であることを、操に文字を教わって識った。
文字を覚えるのは容易い。
けれど、それを使いこなすのに、蓮は随分と時間が掛かってしまった。
操が蓮の掌に文字を綴りながら語り掛け、根気良くそれを教えてくれたおかげで、ばらばらだった思いと知識とを、ようやく蓮は繋げるようになった。
世界は、可能性と共に大きく拡がった。
蓮の周りは師で溢れていた。
操も蓮の学問を見る時間を惜しまなかったし、頭脳を持ってそこに仕える者達は、蓮の問に常に明確な答を与えてくれた。
蓮はひとつの事を学ぶたびに、少しずつ自分が好きになるような気がした。
ちょっとくすぐったいようなその想いをそっと洩らすと、蓮はきっと素敵な大人になるよ。と、哥哥はにこりと笑顔を返してくれた。
大人……。
無意識のままに後込みしていた何かに、ぽんと背中を押された気がした。
蓮はあの時確かに思った。
なれるかもしれないと。
蓮はずっと、ちゃんとした大人になれるか不安だった。
愚かな蓮は、その不安さえ捕らえられずに過ごして来たけれど、哥哥は蓮を導き、不安を希望に変えてくれた。
自分に残された時間が少ないと解った今も、それは決して絶望にはならない。
あの人を追うのはもう叶わないけれど、それでも今の蓮にだって出来る事があるはずだ。
操のために。
愛しい、あの人のために。
操……
冬の遠い空にその人を想い描く。
今何してるのかな?
操のもとにも、こんなふうに暖かな陽射しが降り注いでいるかしら?
願わくば、あの人の周りに光が溢れていて欲しいと思った。
永遠に……。
どうか蓮の代わりに操を暖めて。
蓮は初めてその空に向かって祈りを捧げた。