百十九.
ああそうだ。操に言わなければいけない事があった……
瞳を開けた蓮は、ゆっくりと躰を起こすと操に向き直った。
『操は前に賈詡と謂う人の事を訊いたでしょう? その人の字は文和と云うの?』
そんな事もあったかと記憶を辿りながら、操が頷く。
「確かそうだったな」
『ああ、やっばりそうか。董太師の処にいた人だね』
「そうだ。かつては董卓に仕えていたが、奴が死んだ後は李傕と行動を共にしていた。いつごろそこを離れたかは知らぬが、今は張済の甥と組んでいる」
『相国様は彼の事を策士中の策士だと言っていた。全ての事柄よりまず策が優先される。理や情を捨てるのでも殺すのでもない。何事も策の前には存在しないのだ。そういう男は自分でも恐ろしいと笑っていた。李将軍は長安を制したのは彼のおかげだと頼りにしていたけれど、煙たくも思っていたようだ』
その才を買っていた董卓は、娘婿の牛輔のもとへと賈詡を送り込んだ。
壮年の息子がなかった董卓にとっては、愛娘の連れ合いである牛輔と養子の呂布は、血族と並んで身内と頼む存在だった。呂布には身辺の警護を任せ、牛輔には兵を預けて勢力圏の防衛線とした。
李傕も同様に、牛輔に附けられた董卓の校尉である。郭汜や張済もその当時牛輔の指揮下にあった。
董卓が呂布に暗殺され、牛輔も部下の裏切りで命を落とすと、李傕達は恐怖と混乱で逃亡を考えた。そんな彼らに策を与え、長安に兵を進めさせたのが賈詡である。
横暴の限りを尽くした李傕も郭汜も、賈詡にはどこかで頭が上がらなかった。
「蓮は賈詡を見知っていたか」
蓮は少し言い淀んで俯く。
『彼は蓮を知っている。禍の元凶だと見抜いていた』
「荀公達も蓮を知っていたよ。昔、董卓に召されたことがあるのだ。もっとも、あいつは逆らって投獄されたクチだがな。公達は蓮の事を、そんなふうには言わなかったぞ」
それは彼が口にしないだけだろうと、温和で控えめなその人を思い描く。
そんな蓮の心を見透かしたように、操が笑った。
「公達を大人しい男だと思ったら大間違いだぞ。ああ見えてあれは気骨の人だ。蓮を災いだと思えば、決して受け入れたりはせぬ。そなたの事は、気に入っていたようだ」
『みんなに優しくしてもらって蓮は嬉しかった。荀尚書令にはいろいろ迷惑を掛けてしまったけれど……』
荀文若はいつも蓮に戸惑っていた。
その眉が微かに寄せられるたびに、どうして良いか解らなくて蓮は泣きたくなった。
郭奉孝がそんな様子を察して良く手を差し伸べてくれたけれど、荀公達もふたりの気持ちをほぐそうと、さりげなく声を掛けてくれた。
『郭軍師祭酒は……』
「おや、蓮は奉孝の事をそんなふうに呼んでいるのか? 他人行儀な事を言っては、あれが拗ねるぞ」
蓮は少し驚いた様子で操を見つめた。
「どうした?」
『あのね、哥哥もおんなじ事言ったの』
「孤を官職で呼んだか。それは拗ねねばならんな」
操は笑いながら蓮の肩を抱き寄せる。
『だって、人前では、そう呼ばないといけないでしょう?』
「孤と奉孝の仲ではないか」
気がねするなと操が笑う。
『哥哥もね、自分の前ではいつもと同じでいいよと言ってくれたの。ただ、他の人の前ではそう呼びなさいって』
「蓮は奉孝が好きか」
こくりと顎を引く。
『郭大兄にはたくさん救けてもらったもの。夏侯将軍も大好きだよ。前に寮へ操を追って来た、あの大きな人はなんと謂うの?』
「虎癡の事か。許仲康と謂う猛者だよ」
『虎癡?』
「虎のように強いが、普段はあの通りぼーっとした男でな。アダナだよ」
操は可笑しそうにそう教えてくれる。
その笑みからは、近衛への揺るぎない信頼が伝わって来た。
先の戦の後、操が寮へ馬を駆るたびに、近衛の任にあるその男も後を追って来ていた。
申し訳なくて蓮が小さく謝罪を告げると、彼はただ大きな手で蓮の頭を撫でてくれた。
躰は大きくて怖そうだったけれど、その眸がとても優しかったのを覚えている。
『卞夫人にも良くしてもらった。たくさんお見舞いをいただいたの』
「婆に聞いたよ」
礼状の事を口にしそうになって、操はそれを飲み込む。
『丁様からもいただいたよ。これも阿婆から聞いた?』
「ああ」
操は頷くと、まっすぐに蓮を見つめた。
「蓮。彼女との事はお前とは関係ないのだよ」
蓮は詳しい事情までは知らなかったが、操が丁氏と離縁したことは聞き及んでいる。
あんな事件のあった後だ。少なからず責任を感じているのではなかろうか。
『丁様からも、そうお文をいただいた。全て許して欲しいと。でもそれは、蓮の言わなければいけない事だ。蓮はたくさんの人に嫌な思いをさせた』
蓮は零れた涙を慌てて拭うと、笑った。
『ごめんなさい。こんな話止すね』
「……蓮。そなたと出逢い、そなたを愛しいと思う者も多いのだぞ。仲徳達も蓮を可愛がっておるし、丁もそなたへの気持ちを変えた。卞はな、蓮を養子に欲しいとまで言っておるのだぞ」
蓮は驚いて貌を上げる。
「どうだ? 蓮が望むなら話を進めよう。他に後ろ盾のある家を探そうか。そなたさえ良ければ、曹家に入ってもかまわぬ」
蓮はそんな操にただ笑みを零す。
『ありがとう。でも、蓮は蓮のままいたい』
蓮はすっと操にもたれ掛かると瞳を閉じた。
話し疲れてしまったのだろう。
薬湯が効いたのか咳は治まって来ていたが、蓮の肩は変わらず辛そうに呼吸を刻んでいた。
操はそのまま蓮を夜具に包み込むと、ひっそりとその夜を過ごした。