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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
119/138

百十八.

 陽もすっかり落ちてから室を訪れた操に、婆は少し驚いたようだった。

「協議が長引いてしまった。蓮を待たせてしまったかな」

「蓮は日暮れ方に戻って来たが……。そんならあの子は独りでいたのかえ?」

 共に過ごして来たにしてはどこか浮かぬ(かお)をしている蓮に、また何かしらあって彼を奥へやってしまったのだろうと、独り室へ戻って来た理由を問わずにいた婆は、ようやく合点がいったと内心(うなず)いた。

 だが、それでは蓮は何処(どこ)で何をしていたのだろうか。

 ふたりはそれぞれに思いを(めぐ)らせ、小さく首を傾げた。

「蓮にか?」

 操が婆の手元へ視線を落とす。

「ああ。咳が出て来たゆえ(せん)じたのだよ」

 瞳で彼を促すと、婆は先を導いた。

 近付く牀からは、コトコトと小さな咳が(こぼ)れていた。

「蓮。孟徳様だよ」

 声を掛け、(とばり)を開けると、蓮は牀へ座り込んだまま操に笑みを見せた。

 が、貌を背け、胸を押さえるようにして咳を繰り返す。

 (つら)そうにその背が揺れた。

「それ、薬湯を持って来たよ」

「婆。(わし)が」

「そうかえ。そんならお頼み申そうか」

 ひとつ頷き、操はそれを引き受ける。

「婆は次の間に控えておりますゆえ、なんぞありましたら呼んでくだされ」

 言い置いて下がる婆を、操は(ねぎら)いで見送った。

「さあ」

 (からだ)を支えてやりながら薬湯を与えると、蓮は小さな喉をこくりと鳴らしながら、ゆっくりとそれを飲み干した。

 (あえ)ぐように肩が揺れる。

 操がそっと背をさすってやると、その胸にもたれるように蓮は身を寄せた。

『ごめんなさい。今日は調子が良いから大丈夫だと思ったのだけど……』

「良い時も悪い時もあろう。(あせ)りは禁物だぞ」

 蓮はちょっとした変化でも体調を崩すようになっていた。

 この夜は少し気温が低いので、その影響だろう。

『将軍は?』

「うん? なんでもないよ。ただの戦況報告だ。心配せずと良い」

 操はそう言って笑ったが、彼が出陣する日も近いのだろう。

 無意識のままに蓮の指は、操の(ころも)辿(たど)っていた。

 操……

 見上げ、呼ぶ蓮に操が視線を返す。

『寮の事だけど……』

 少しためらうように、蓮が文字を(つづ)った。

「なんだ。あの寮がどうかしたか?」

 突然の話に操は何の事かと首を傾げる。

『本当に蓮が使っても良いの?』

「どうしたのだ。改まって」

 とっくにあの寮は蓮に与えたつもりだった。

『あのね。近いうちに寮へ移ろうと思うの』

 操は少し言葉に詰まる。

 蓮は戦の気配を早くも察しているのだろうか。

「行きたいと申すならかまわぬが……」

 寂しいではないかと操は思う。

 府にいれば、こうして時間を見つけて逢うことも出来るが、寮へ行ってしまえばそれもなかなか叶わなくなる。

『ごめんなさい。蓮はここにいると考えなくて良い事まで考えてしまうの。少し、辛い……』

 そう記して(うつむ)く蓮を、操はしばし見つめた。

「蓮。孤は何かしてやれる事はないか? 望みがあれば言ってくれ。孤はそなたに何かしてやりたいのだ」

『操はこんなに良くしてくれてるのに、まだ何を望むの?』

 蓮が笑う。

 もしかしたら、戦に行くなと言えば、このまま一緒にいてくれるのだろうか。

 全てを捨てて、蓮を看取(みと)ってくれるのだろうか。

 もし、蓮に何かを望むことが許されるのなら、この人の腕の中で死にたいと思った。

 後に残される全ても、この人の気持ちも、何もかも(おも)わなくて良いと言うのなら……。

 だけど、蓮にはそれは出来なかった。

 今のぬくもりさえ、過ぎるほどありがたいのに、これ以上何を望めるというのだろう。

 蓮はしばしその暖かさに身をゆだね、そっと瞳を閉じた。

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