百十八.
陽もすっかり落ちてから室を訪れた操に、婆は少し驚いたようだった。
「協議が長引いてしまった。蓮を待たせてしまったかな」
「蓮は日暮れ方に戻って来たが……。そんならあの子は独りでいたのかえ?」
共に過ごして来たにしてはどこか浮かぬ貌をしている蓮に、また何かしらあって彼を奥へやってしまったのだろうと、独り室へ戻って来た理由を問わずにいた婆は、ようやく合点がいったと内心頷いた。
だが、それでは蓮は何処で何をしていたのだろうか。
ふたりはそれぞれに思いを廻らせ、小さく首を傾げた。
「蓮にか?」
操が婆の手元へ視線を落とす。
「ああ。咳が出て来たゆえ煎じたのだよ」
瞳で彼を促すと、婆は先を導いた。
近付く牀からは、コトコトと小さな咳が零れていた。
「蓮。孟徳様だよ」
声を掛け、帳を開けると、蓮は牀へ座り込んだまま操に笑みを見せた。
が、貌を背け、胸を押さえるようにして咳を繰り返す。
辛そうにその背が揺れた。
「それ、薬湯を持って来たよ」
「婆。孤が」
「そうかえ。そんならお頼み申そうか」
ひとつ頷き、操はそれを引き受ける。
「婆は次の間に控えておりますゆえ、なんぞありましたら呼んでくだされ」
言い置いて下がる婆を、操は労いで見送った。
「さあ」
躰を支えてやりながら薬湯を与えると、蓮は小さな喉をこくりと鳴らしながら、ゆっくりとそれを飲み干した。
喘ぐように肩が揺れる。
操がそっと背をさすってやると、その胸にもたれるように蓮は身を寄せた。
『ごめんなさい。今日は調子が良いから大丈夫だと思ったのだけど……』
「良い時も悪い時もあろう。焦りは禁物だぞ」
蓮はちょっとした変化でも体調を崩すようになっていた。
この夜は少し気温が低いので、その影響だろう。
『将軍は?』
「うん? なんでもないよ。ただの戦況報告だ。心配せずと良い」
操はそう言って笑ったが、彼が出陣する日も近いのだろう。
無意識のままに蓮の指は、操の衣を辿っていた。
操……
見上げ、呼ぶ蓮に操が視線を返す。
『寮の事だけど……』
少しためらうように、蓮が文字を綴った。
「なんだ。あの寮がどうかしたか?」
突然の話に操は何の事かと首を傾げる。
『本当に蓮が使っても良いの?』
「どうしたのだ。改まって」
とっくにあの寮は蓮に与えたつもりだった。
『あのね。近いうちに寮へ移ろうと思うの』
操は少し言葉に詰まる。
蓮は戦の気配を早くも察しているのだろうか。
「行きたいと申すならかまわぬが……」
寂しいではないかと操は思う。
府にいれば、こうして時間を見つけて逢うことも出来るが、寮へ行ってしまえばそれもなかなか叶わなくなる。
『ごめんなさい。蓮はここにいると考えなくて良い事まで考えてしまうの。少し、辛い……』
そう記して俯く蓮を、操はしばし見つめた。
「蓮。孤は何かしてやれる事はないか? 望みがあれば言ってくれ。孤はそなたに何かしてやりたいのだ」
『操はこんなに良くしてくれてるのに、まだ何を望むの?』
蓮が笑う。
もしかしたら、戦に行くなと言えば、このまま一緒にいてくれるのだろうか。
全てを捨てて、蓮を看取ってくれるのだろうか。
もし、蓮に何かを望むことが許されるのなら、この人の腕の中で死にたいと思った。
後に残される全ても、この人の気持ちも、何もかも慮わなくて良いと言うのなら……。
だけど、蓮にはそれは出来なかった。
今のぬくもりさえ、過ぎるほどありがたいのに、これ以上何を望めるというのだろう。
蓮はしばしその暖かさに身をゆだね、そっと瞳を閉じた。




