百十七.
操……
蓮はそっとその人が座していた場所を指で辿り、僅かに残るぬくもりを求めた。
書き掛けの書。彼の筆跡。使っていた筆。
ぎっしりと書の詰まった書架。
幽かに残る香の薫り。
そして、愛しい人の匂い……。
この室で過ごした時間を懐かしむ。
蓮はひとつひとつの思い出を辿りながらしばらく辺りを眺めていたが、やがてゆっくりと立ち上がり、室の扉を開いた。
目の前に広がる庭。
操はここで自由に過ごす事を許してくれた。
蓮には何もかもが物珍しくて、ふらふらと歩き回っては良く笑われた。
最初は迷子になりそうだったけれど、今ではちゃんと何処に何が在るのか覚えている。
ぼんやりしていても奥に迷い込んだり、表に出てしまう事もなかったし、誰にも見つからずにひっそりと過ごす事だって出来た。
この樹の枝は心地良くて、腰掛けていると包み込んでくれた。
操が樹に登っても良いと言うから上がってみたら、下で阿婆が倒れそうなほど心配して、しきりに降りて来いと呼んだ。
それ以来蓮は、この奥の樹にしか登らない。
あの茂みは暖かで、少しくらい風が吹いても蓮を護ってくれた。
池の鯉は蓮を見つけると、物珍しそうに近寄って来る。
蓮はその泳ぐ姿を飽きもせず眺めた。
悲しい事があると、椿の根元にしゃがみこんで泣いた。
蓮はいつも泣いてばかりで、操や阿婆に心配ばかり掛けていた。
たくさんたくさん感謝しているのに、蓮はあの人達に哀しみだけを残してしまうのだろうか。
急速に傾いて行く夕陽の中で、蓮は零れる涙を何度も拭う。
大地は植物を育み、水には魚が泳ぐ。
では、蓮は何処から生まれて来たのだろう。
そして、何処へ還れば良いのだろう。
最近、そんな事を良く考える。
独りきりで行けるのかしら?
耐えきれないほどの不安に押しつぶされそうになって、蓮は空を見上げた。
この間哥哥が話してくれた、広くて青い海に思いを馳せる。
幻でも良い。海の宮を見れたらいいな。
ふと、そんな事を思った。