百十四.
「疲れたか。少し横になるといい」
操の言葉に素直に頷き、蓮は膝に甘えた。
その肩ははっきりと呼吸を刻み、明らかに病の進んでいる様子が嘉にも見て取れた。
もともと色の白い子だが、肌は血の気が引いており、瞳はどきりとするほど透み渡っていた。
「奉孝は何年か諸国を巡り歩いていたそうだな。なんぞおもしろい話があったら聞かせてやってくれ」
操は蓮の髪を撫でながら、そう頼んだ。
今の蓮に、戦の話も、政の話も、聞かせたくなかったのだ。
嘉もその気持ちが解り、ひとつ肯いて返す。
が、ふと思案するようにそれが傾いた。
「と、言いましても、蓮殿にお話出来るような事がありましたかな」
「酒と妓と博打だな。蓮にはちと早いかの」
「何を仰いますのやら。各地の賢者に教えを請い、勉学に励んでおりましたゆえ、お話申し上げてもおもしろくはなかろうかと案じておりますのに」
すまして言う嘉に、君はげらげらと声を上げて笑った。
「奉孝よ、最高の冗談だ」
確かに冗談なのだが、そこまで笑われると、さすがに心情を害する。
役人生活が嫌で遁走した手前、適当に名乗って各地をふらふらしていたのは本当だが、一応それぞれの土地で学ぶべき事は学んで来ている。賢者に師事していたというのは誇張だが、まるきりの嘘というわけでもなかった。
もっとも、君の言う酒と妓と博打も違ってはいないが。
「で、誰ぞおもしろい人物はあったか?」
「そうですねえ。おもしろいという事では、主公に勝る方は存じ上げませぬが」
身を乗り出して尋ねる君に、嘉がやり返した。
蓮も思わず吹き出し、嘉と視線を交わしてくすくすと笑う。
「なんだ。蓮まで笑うのか。ひどいのお」
その様子にふたりはまた笑った。
『今度蓮にも博打を教えて』
「いいですよ。上手くなったら主公からごっそり巻き上げましょう。私は強いですからね。蓮を弟子にしてあげますよ」
そんな冗談に蓮は嬉しそうに頷いた。
「そうだ。私はあちこち巡り歩いている間に海を見た事があるのですよ」
『本当? 海とはどんなものなの?』
「ひと言で言えば、碧く広大なものですね」
『空みたいに?』
「そうですね。空のように無限ですが、ずっと深い青で絶えず波が打ち寄せます。時間によっても、天候によっても海はその色を変え、うねりも大きく変わるのです。穏やかな優しい顔もあれば、激しく厳しい様も見せる。まるで巨大な生き物のようでした」
「巨大な生き物と言えば、海にはとてつもなく大きなものが住んでいるそうです。数人が手を伸ばしても抱えきれぬほどに大きいのだとか。海は広いので、魚も大きくなるのでしょうか」
にこりと嘉が笑う。
「こんな伝説も聞きました。海の底には巨大な貝が住んでいて、その吐く気が人に幻を見せるのだそうです。時折海上に楼閣が浮かぶ事があるそうですよ」
『そこには誰か住んでいるの?』
「さあ、どうなのでしょうね。時々しか現れぬもので、私も実際に見る事は叶いませんでした」
『そうなの。阿婆がね、海の中にある綺麗な宮殿の話をしてくれたの』
「そうですか。もしかしたらその宮殿が、時折そうやって見えているのかもしれませんね」
それなら、海の宮殿は本当にあるのだろうか……
蓮はまだ見ぬ海へと思いを馳せる。
「蓮。海の中を探すなどと言わないでくれよ」
そう笑う操に嘉もそれを零す。
言い出し兼ねないと思っているのだろう。
蓮はちょっぴり頬を膨らませて見せたが、指先で文字を描いた。
『海の宮や天の宮より、ここが好きだよ』
みんなの傍が良いと蓮は思う。
蓮は小さく息をついて束の間瞳を閉じていたが、やがてゆっくりと躰を起こした。
『楽しいお話を聞かせてくれてありがとう。邪魔をしてごめんなさい』
「行くのか。共に参るゆえしばし待て」
辞そうとしているのを察し、操が呼び止める。
「それなら、私はもうお暇致しましょう」
嘉も君が蓮を送って行けるようにと腰を浮かす。
そんなふたりを押し留め、蓮が笑った。
大丈夫。
脣が告げた。
蓮はもう一度丁寧に礼を示して座を辞すと、ふとその視線を嘉へと止めた。
だが、特には何も示さず、ゆっくりと楼を降りて行く。
やがて階下で小さく鈴の音が響き、ふたりはまた静寂の中に残された。
煌々と注ぐ月の光に、澄んだ虫の音が響く。