百十三.
そこに、しゃらしゃらと呼鈴が鳴った。楼の下で来訪を知らせるための物である。
「さては嗅ぎつけたな」
そう呟いて盃を離すと、操は暗い階下を覗き込んだ。
「蓮だな」
りゃんりゃんと下から鈴の音が返った。蓮の持っているそれである。
続いて、階段の軋む音が微かに響いた。
「良い、そこにおれ。今迎えに行く」
嘉も灯りを取ってそれに従う。
楼の階段を降りて行くと、蓮の白い貌がほんのりと浮かんだ。
「これ。婆の目を盗んで来たな」
操は茶目を含んで叱りながら、蓮を抱き上げる。
たった数段這うように昇っただけで、蓮の息は上がっていた。
宴席に戻って傍らに座らせてからも、蓮はしばらく息を整え肩を揺らしていた。
「無茶を致すな」
そんな蓮を操が諭す。
少年は頷いて謝罪を口にすると、嘉を示し、話しても良いかと尋ねた。
彼に何か言いたくて、ここまでやって来たのだろう。
操が頷くと、蓮はまだ肩で息を刻みながら、嘉の前に手を着いた。
驚いたのは嘉である。
「何をするのです」
慌ててその手を取り、頭を起こさせる。
蓮は一度首を振ると、嘉に文字を綴った。
『操を救けてくれてありがとう』
瞳を潤ませながら再び手を着く。
「主公! 蓮に何を言ったのです」
おおよそを悟った嘉は、傍らの君へキッと視線を向けた。
「何をという事もない。本当の事だけだぞ」
――何が本当の事だけだ。全部ぺらぺら喋りやがったな。
嘉は苦り切る。
君は蓮がなぜここへ来たのかも、自分に何を告げたかったのかも、粗方想像がついていたのだろう。
蓮の行動に、別段驚いたふうもなかった。
事の仔細はこうである。
先の戦での行軍は、豊かに麦が穂を揺らす季節と重なった。
農作業の忙しい時期であるにもかかわらず、畑にはその気配が無い。
農民達は曹軍に恐れをなし、どこかへ隠れてしまっていたのだ。
その様子を見た操は、全軍に畑を荒らしてはならぬと厳しく命を下した。
ところがどういうわけか、彼の乗る馬が暴れ出し、麦の穂を踏み倒してしまった。
軍令に従い、自らの首を刎ねよと命じた君に、周囲は慌てた。
彼は主君である。
ましてや戦の最中、司令官の彼を失ってどうしろと言うのか。
その時進み出たのが嘉だった。
彼は、“法は貴きに加えず”の故事を引き合いに、君を諫めた。
嘉は続けた。
「また、聖人禹は刑は刑なきを期すと申しました。刑とは罰する事を目的に定められたものにあらず、刑罰なくして世が治まるようにと流布されるものにございます。主公が定められた法は、農民達が安心して作業を行えるようにと成されましたが、ここで主公が自ら命を断ち、この地が侵略を受けますれば、そもそも人々の安全などどこにありましょうか。それではせっかくの良法も意味がなくなってしまいます」
今一度考え直すようにとの言を受け入れ、操は首の代わりに髪を斬った。
父母から受け継いだ大切なものとされる髪を断つのは罪人の証であり、刑罰のひとつだった。
曹操自らが罰を受けたその軍令の厳しさを伝え聞いて、やがて農民達は畑へと戻って来た。
戦から帰った操の髪が断ち切られていれば、何があったのかと周囲は当然心配する。
操は蓮にもその顛末を話して聞かせ、奉孝は命の恩人だと笑ったのである。
「蓮。とにかく手を上げなさい」
蓮が再び手を着かぬよう、膝に掌を重ねて嘉は諭す。
「良いかい。私は主公の臣だ。臣下として当然の事をしたまでで、蓮に手を着いてもらう事ではないのだよ」
「軍師祭酒殿は軍令の掌握も行う。これでこの男は法に明るくてな」
最後は笑いを含みながらの君に、ひと言多いじゃないかと、ちらりと嘉は視線を流した。
軍令を掌握する立場の者が品行が悪くては話にならんとか、精通していながら法を犯すのは却って冒涜だとか、もちろん様々言われている。
だが、罰せられることをしているつもりは嘉にはなかった。
飲み代を踏み倒せば罪であろうが、誰と何処でそれを酌み交わすかは問題ではない。
そう思っているのだ。
身分制度に依る社会的秩序が前提の世の中だから、口に出せば物議を醸すのは解っている。
だから嘉は全てを受け流す。
論議に奪われる、無駄な時間と体力が惜しいのだ。
「もう茶番はごめんですよ」
「おや。奉孝は気付いていたか」
解らないでか。と内心毒付く。
君は乗馬にも長けているし、馬も訓練の行き届いた名馬だ。あんな何もない所で突然暴れるわけがない。
要するに、君は一芝居打ったのだ。当然、嘉が止めるのも計算の上である。
その思惑通りに躍らされたことも、嘉はなんとなく気に入らなかった。
「そうならそうと、事前に仰ってくだされば。咄嗟の事で、あんな言い訳しか思い浮かばなかった」
「ふふ。咄嗟にあれだけ口に出来れば上等だ」
愉快そうな君に、嘉は小さく吐息をついた。
徐州大虐殺の前科を持つ曹軍は、未だに人々に恐れられている。その悪評を薄めるためなら、髪を斬るくらい安いものだと思っているのだろう。
蓮はふたりのやり取りを楽しそうに眺めていたが、膝を崩し、ふわりと操へもたれ掛かった。