百十二.
冴え冴えとした月が、シンと光を投げる夜だった。
雲ひとつない月夜を愛でて、君は楼へと嘉を誘った。
目を細めて月を眺めながらも、その胸中に渦巻いている思いを推し量って、嘉はそっと瞳を伏せる。そこには、蒼褪めた月光を受けた君の影が長く刻まれていた。
「戦に追われていると季節の巡りが早い」
君はそう言って笑うと座に戻り、酒器を取り上げた。
「もっとも、こうして月を眺めて酒を食らっている己を、元譲は羨むであろうがな」
盃を傾けながら、嘉に笑みを含んだ視線を流す。
嘉は黙ってそれを受け止めると、君の盃を酒で満たした。
徐州の呂布が袁術と通じ、小沛に在る劉備を攻めていた。
援軍を請われた操は兵を整え、惇を向かわせたが、呂布は先方隊だけで片付く相手ではない。遠からず、操自身が兵を率いることになるだろう。
「主公、私は……」
嘉は詫びるべきか思い迷う。
気持ちとしては詫びたかったが、それを受ける彼の心情を思った。
呂布と事を構えるのは想定の内である。
嘉もまた、それに向けてこれまでの計略を進めて来た。
そして、予想通り戦の火蓋は切って落とされた。
呂布を討ち破る自信はある。
しかし、相手も豪を持って天下に鳴り響く武将である。簡単な戦であろうはずがない。
戦に掛かる時間は、それだけ蓮から彼を引き離すことになるのだ。
君は嘉の心を察したのだろう。小さく笑ってただ首を振った。
嘉はその思いに頭を垂れる。
「背後に袁術があるようだな。あれもなかなかしぶとい」
「彼とて必死なのでしょう」
袁術と呂布は少し前まで互いを喰い合っていたのだ。
その相手と手を組むとは、なりふりかまわぬやりようだが、それだけ曹操と謂う敵が恐ろしいのかもしれない。
彼らにとって、曹操と敵対している事実だけは、確かに共通していた。
「奴等は仲良く兵を向けるかな」
冗談めかした口調で君が嘲う。
「袁術はさもしい男です。餌をちらつかせても、実際に与えるのは惜しみましょう。呂布は現物を手にしなければ納得するまい。決裂は目に見えています」
「そなた、呂布と謂う男をどう見る?」
「天下一の豪の者と、もっぱらの評判でございますが」
「世の評などどうでも良い。そなたから見れば、呂布など穴だらけの男であろう?」
自分ではなく、多芸多才な君から見れば。だろうと、嘉はちょっと口を尖らせ視線を向けた。
「私は大道芸師ではありませんよ。猛獣の扱いは不慣れです」
そんな嘉に操が声を上げて笑った。
「確かに猛獣を飼い慣らすのは難しい。だが、郭奉孝なら呂布を使う術があろうと孤は思うのだ。どうだ?」
瞳を覗き込む君に、思わず嘉は溜め息を返した。
まったく、この人の人材収集癖は、なんとかならないものかと思う。
相手は、まもなく戦を構えようとしている敵である。
ましてや呂布は、一時でも養父と呼び親しんだ相手を殺した男なのだ。
「確かに呂布と謂う男の行動は、衝動的で思慮の欠片も見えない。おそらくは、人としても短絡で単純な男なのでしょう。そういう人間を策を持って繰るのは難しいことではありますまい。ですが、私は呂布と謂う人間が何やら恐ろしい。私は彼に、人としての闇を感じられないのです」
「人としての闇?」
その問いに、嘉はしばし黙り込んだ。
それは、心に負う物と言っても良いだろうか。
人とは悔いや悼みや苦みなど、表に出せぬ思いもまた、多く抱えて生きるものだ。
だが、呂布の心は果たしてそれを抱いているのだろうか?
彼はこれまでに多くの裏切りを重ねて来た。乱世の今、相手を出し抜き喰い合うのは世の定め。その事で呂布をとやかく言うつもりはない。
しかし、そこに僅かでも心を乱す思いはあったのか。彼は、自らが手に掛けた養父の事を思う日はあるのだろうかと。
勇猛をして鳴らす男には、およそ似つかわしくない情ではあろうが、あっけらかんと突き抜けたその印象が、虚しささえ嘉に抱かせる。
だが、それを口にするのは止めた。
「あまり単純過ぎても策は功を成さないということです。猛獣とはこちらの思惑など解さず、再び野に帰る機会を覗い暮らすものではありますまいか」
「ふむ。呂布は隙を見せれば裏切るか。では、あれの配下に人はあろうか。だいぶ董卓の残党が集っていると聞くが」
「はい。私もそう聞いております。おそらく、彼のもとにある騎馬隊は、この中原で最強の機動部隊でしょう」
董卓は優秀な騎馬兵が多く育つ西辺に勢力を持ち、彼自身もまた騎馬術に長けた武将であった。
そんな董卓が組織した軍は彼の死後四散していたが、徐々に呂布のもとへ集い、その勢力を成していた。
「小沛は持ち堪えられまいな」
「劉備は戦はから下手です。やるだけ無駄でしょう」
嘉はにべもなく言い放って肩を竦める。
操ももっともだと笑い、そんな彼の盃を満たした。
「まあ良い。せっかくの部隊を無駄に叩かれても困る。あれの逃げ上手が、今回ばかりはありがたいな」
酒を受けながら嘉も失笑する。
劉備は危ないとなれば、城も家族も放り出してとにかく逃げる。この世で唯一惜しいのは命のみと、割りきっているかのような潔さである。
なんとなくそこに、その身ひとつがありさえすれば、いつでも再起出来るという自負が見え隠れしていて、操には却って不気味なくらいだった。
「敵の将は張遼と聞いております」
「うむ。元譲にはあまり本腰を入れぬよう遣いを出そう。まともに戦ってはこちらの損害も大きい」
やはり君には、丸ごと呂布の勢力を、配下に引き入れたいとの思いがあるようだ。
取り込むつもりなら相手を叩き過ぎては損失である。
かと言って、自軍を失うのは避けなければならない。
頭だけ切り取るのが最も易いが、人材大好きのこの君は、猛将呂布も欲しがっている。
さて、それにはどんな策で当たるべきか……
考えを巡らせる嘉の様子に、そっと操は笑みを零した。
彼は、ささいな会話からでも、驚くほどこちらの真意を汲み取る。
勝敗も決しないうちから、呂布が欲しいの、その軍勢を組入れたいのと漏らせば、呂布との戦を甘く見ていると取られ、あるいは家中の緊張も緩んでしまうだろう。
わざわざ召して、皮算用な事を口にしている理由を、彼は説明されなくても十二分に解っていた。
おそらくは、操の望みに最大限に沿う形でこの戦を終結させるよう導くだろう。
――頼もしいことだ。
操は笑みを持って歳若い愛臣を眺めながら、酒を愉しんだ。