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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
112/138

百十一.

「おや、孟徳様。お早いおなりですな」

 まだ朝靄(あさもや)も消えやらぬ早い時間に、そっと扉を開けるのを目敏(めざと)く見つけ、婆は大業な仕草を寄越した。

 もちろん、厭味である。

 操は肩を(すく)めてそんな婆に視線を返す。

 そう言うなと言っているのだ。

「蓮はどうだ?」

「牀だよ。言うておくが、あまり具合は良くないよ」

 蓮のほうが病が重いのにと、彼を責めてしまいそうだった。

 それを聞くや、操は蓮のもとへ向かおうとする。

「お待ち。そんな白粉(おしろい)臭いナリをして、蓮の(そば)へ行くつもりかい?」

「なんだと?」

 思わず操は自分の(ころも)()ぐ。

「――白粉、臭いか?」

「冗談だよ。いつもと違う香が薫るゆえ、お引き止め申したのさ。更衣なさらぬかえ」

 婆は出来るだけ蓮に女達の存在を感じさせたくなかった。

 操を奥に行かせるとはどういう事なのか。行けば朝まで戻らぬ事も承知で蓮は行かせたのだろうが、頭で解っているのと、心のそれとは別だった。

 蓮がどれほど操に()がれているのか、婆にも痛いほど解る。

 だが、蓮はそれを決して言葉にしない。言わぬと決めているのだろう。

「婆は蓮贔屓ゆえ(から)いのかもしれぬが、わざわざお前様の衣に香を匂わせるようなやり方は好かぬよ。奥の方々には常套なのやもしれぬが、蓮はそんな事など考えもしない子だ。巻き込まないでやっておくれ」

「――婆は、少し変わったかの」

「そうかもしれぬ……」

 ぽつりと(つぶや)く。

 操より、婆のほうが蓮と過ごす時間が長い。操の知らぬ蓮の涙も、婆は数多く知っているのだ。情が移らぬほうがおかしいだろう。

「婆は蓮が愛しうてならぬ。出来る事なら蓮の苦しみを全部代わってやりたい。もう生い先短いババアだが、それでも足しになるのなら、この寿命も全部蓮にやってしまいたいよ」

(わし)は婆にも長生きしてもらわねば困るよ」

「なあに、もう充分長生きしたさ」

 真剣な操のまなざしに照れた様子で、婆はそう笑った。

「さあ、蓮の傍へ行ってやっておくれ。あの子は熱が高くて()せっているけれどね」


「蓮」

 牀の(とばり)に手を掛け、呼ぶと、(からだ)を丸めるようにして横たわっていた蓮がゆっくりと身を起こした。

 婆の言う通り熱が高いのだろう。(あえ)ぐように肩が揺れる。

(つら)いか。横になっておれ」

 その気遣いに微笑(ほほえ)んで首を振ると、支える操の胸に躰をもたれた。

『若君様のご様子は?』

「ああ、少々風邪が長引いているようだ。大事ない」

 操の言葉に良かったと呟いて、蓮は安堵の吐息をついた。

 そのまま呼吸を整えるように何度か大きく胸を揺らす。

『若君様はおいくつ?』

「この許で産まれたから、みっつかな」

『そう。許でお産まれなの』

 蓮は何かを思うように少し遠くを見つめた。

『許は生き生きとしていて力強い街だね。蓮はここの空気が好きだよ。道を行く人達はみんな目的を持っていて快活で、ぼんやり者の蓮なんて邪魔にされてしまいそうだったけれど、あそこにいるとなんだか元気が出る気がしたよ』

「そうか。それなら熱が下がったら連れて行ってやろう」

 蓮は是も否もなくただ微笑(わら)う。

『蓮は(ラク)陽が恋しい時もあったけれど、本当は雒陽の事なんて何も知らないの。街に出た事もなかったし、時々空を垣間見ていただけ。それは、他の街も同じだね』

『許ではたくさんの事を教えてもらったな……』

 蓮の思いは遥か遠くを見つめる。

 その(くちびる)が何かを呟いた。

「なんだ?」

『ううん。蓮は少し疲れてしまったの。今日はこのまま休んでいてもいい?』

「ああ。ゆっくり過ごしなさい。執務が終わったらまた来るよ」

 操は蓮の肩を撫でながら(ささや)く。

 触れた額は燃えるように熱かった。

 蓮はゆっくりと躰を横たえると、熱に潤んだ瞳を閉じた。

 操はしばらく蓮に付き添っていたが、やがて静かに牀を離れた。

 回廊を歩み始めてふと思い当たる。

 (いい)な……。

 そうだ。蓮は確かに先程そう呟いたのだ。

 あの子が(うらや)む事は山程あるだろうが、それを口にしたのはこれまで一度もなかった。

 さて、何を羨ましいと言ったのだろうか?

 出来る限り望みを叶えてやりたい操は、それを思ってしばし足を止めた。

 秋の空は高い――。

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