百十一.
「おや、孟徳様。お早いおなりですな」
まだ朝靄も消えやらぬ早い時間に、そっと扉を開けるのを目敏く見つけ、婆は大業な仕草を寄越した。
もちろん、厭味である。
操は肩を竦めてそんな婆に視線を返す。
そう言うなと言っているのだ。
「蓮はどうだ?」
「牀だよ。言うておくが、あまり具合は良くないよ」
蓮のほうが病が重いのにと、彼を責めてしまいそうだった。
それを聞くや、操は蓮のもとへ向かおうとする。
「お待ち。そんな白粉臭いナリをして、蓮の傍へ行くつもりかい?」
「なんだと?」
思わず操は自分の衣を嗅ぐ。
「――白粉、臭いか?」
「冗談だよ。いつもと違う香が薫るゆえ、お引き止め申したのさ。更衣なさらぬかえ」
婆は出来るだけ蓮に女達の存在を感じさせたくなかった。
操を奥に行かせるとはどういう事なのか。行けば朝まで戻らぬ事も承知で蓮は行かせたのだろうが、頭で解っているのと、心のそれとは別だった。
蓮がどれほど操に焦がれているのか、婆にも痛いほど解る。
だが、蓮はそれを決して言葉にしない。言わぬと決めているのだろう。
「婆は蓮贔屓ゆえ辛いのかもしれぬが、わざわざお前様の衣に香を匂わせるようなやり方は好かぬよ。奥の方々には常套なのやもしれぬが、蓮はそんな事など考えもしない子だ。巻き込まないでやっておくれ」
「――婆は、少し変わったかの」
「そうかもしれぬ……」
ぽつりと呟く。
操より、婆のほうが蓮と過ごす時間が長い。操の知らぬ蓮の涙も、婆は数多く知っているのだ。情が移らぬほうがおかしいだろう。
「婆は蓮が愛しうてならぬ。出来る事なら蓮の苦しみを全部代わってやりたい。もう生い先短いババアだが、それでも足しになるのなら、この寿命も全部蓮にやってしまいたいよ」
「孤は婆にも長生きしてもらわねば困るよ」
「なあに、もう充分長生きしたさ」
真剣な操のまなざしに照れた様子で、婆はそう笑った。
「さあ、蓮の傍へ行ってやっておくれ。あの子は熱が高くて臥せっているけれどね」
「蓮」
牀の帳に手を掛け、呼ぶと、躰を丸めるようにして横たわっていた蓮がゆっくりと身を起こした。
婆の言う通り熱が高いのだろう。喘ぐように肩が揺れる。
「辛いか。横になっておれ」
その気遣いに微笑んで首を振ると、支える操の胸に躰をもたれた。
『若君様のご様子は?』
「ああ、少々風邪が長引いているようだ。大事ない」
操の言葉に良かったと呟いて、蓮は安堵の吐息をついた。
そのまま呼吸を整えるように何度か大きく胸を揺らす。
『若君様はおいくつ?』
「この許で産まれたから、みっつかな」
『そう。許でお産まれなの』
蓮は何かを思うように少し遠くを見つめた。
『許は生き生きとしていて力強い街だね。蓮はここの空気が好きだよ。道を行く人達はみんな目的を持っていて快活で、ぼんやり者の蓮なんて邪魔にされてしまいそうだったけれど、あそこにいるとなんだか元気が出る気がしたよ』
「そうか。それなら熱が下がったら連れて行ってやろう」
蓮は是も否もなくただ微笑う。
『蓮は雒陽が恋しい時もあったけれど、本当は雒陽の事なんて何も知らないの。街に出た事もなかったし、時々空を垣間見ていただけ。それは、他の街も同じだね』
『許ではたくさんの事を教えてもらったな……』
蓮の思いは遥か遠くを見つめる。
その脣が何かを呟いた。
「なんだ?」
『ううん。蓮は少し疲れてしまったの。今日はこのまま休んでいてもいい?』
「ああ。ゆっくり過ごしなさい。執務が終わったらまた来るよ」
操は蓮の肩を撫でながら囁く。
触れた額は燃えるように熱かった。
蓮はゆっくりと躰を横たえると、熱に潤んだ瞳を閉じた。
操はしばらく蓮に付き添っていたが、やがて静かに牀を離れた。
回廊を歩み始めてふと思い当たる。
羨な……。
そうだ。蓮は確かに先程そう呟いたのだ。
あの子が羨む事は山程あるだろうが、それを口にしたのはこれまで一度もなかった。
さて、何を羨ましいと言ったのだろうか?
出来る限り望みを叶えてやりたい操は、それを思ってしばし足を止めた。
秋の空は高い――。