百十.
ふたりは寄り添うように日々を過ごした。
蓮はやはり躰が辛いのか、あまり出歩こうとしない。操の執務中は、室でひとり過ごす事も多くなった。
蓮は操が傍にいるだけで満足らしく、何も言わなかった。
ただ時折甘えて、その胸にそっと寄り掛かった。
操はそんな蓮を腕に抱きながら、静かな声音でいろいろな話をした。
子供のころの話。
初めて任官した時の話。
彼を取り巻く人々の話。
とりとめもなく、思いつくままに操は語り、冗談混じりのそれを聞きながら蓮は笑った。
腕にある蓮の肩は、はっきり見て取れるほど揺れている。
安静時にも少し乱れる呼吸が、病の深さを語っていた。
そこに、遣いの者が取次ぎを願い出た。
「なんだ?」
不機嫌そうに操が返す。
蓮との時間を邪魔されるのは不快だった。
「環夫人よりお言付けです。若君のご体調優れず、ご相談申し上げたいゆえ、僅かなりともお時間をと」
操はふと、その言葉に視線を向ける。
奥の事は卞に任せている。その采配への信頼もある。が、幼い我が子が病と聞けば、気になるのが親の情だった。
『行ってあげて』
「しかし……」
『蓮は大丈夫』
操の心を察したように、蓮はにこりと笑った。
「……そうか。それなら様子を見て来よう。なるべく早く戻る」
操はそれでも名残が惜しいのか、しばらく蓮を眺めていたが、やがてその腕を解き放った。
ひとりで室へ戻って来た蓮に、婆は少し驚いたようだった。
「あれ、孟徳様はご一緒ではないのかえ?」
『若君様がご病気なの』
文字で告げる。
「孟徳様がそう仰ったか?」
『お遣いが来た』
「なんだ。それで主公を奥へやってしまったのか。蓮はお人好しよなあ」
それは、女の使う手管ではないかと婆は思う。蓮にも解るようにわざわざ使者を立て、口上させたのだろう。若君の病は嘘ではなかろうが、そのやり口がイヤラシイと婆は思う。
もっとも、婆は母親の心境に近いから、嫁達への心情はもともと良くはないのだ。
そして、手練手管を使ってでも呼びたいほど、彼はこのところ奥と疎遠である。そばに仕える者が主人を思った末の行動だったかもしれない。
躰の利かぬ事が多くなった蓮は、それを心苦しく思い、夜は奥へ行くよう何度か勧めてはいるのだが、辛い時こそ傍にいてやりたいのだと夜通し看ていた事もあった。
離れて過ごす夜でさえ、彼はどうやら奥へは行かず、私室で書を相手にしているらしい。
蓮が奥への気遣いを見せるのも、当然だった。
『病の時は心細いもの。蓮もひとりは寂しいから』
蓮は知らないのだ。
曹孟徳の和子として何不自由なく育つその周りには、母君や乳母をはじめ、仕える者達が打ち揃っており、寂しいなどという事はあるまい。
だが、それをこの子には言えなかった。
「蓮は優しい子だな」
今でも寂しい思いをしているのは蓮のほうだった。この子はただひとりの想い人しか頼る術がない。病を抱えて独りの夜を過ごす蓮が、婆は哀れでならなかった。
「どれ。そんなら今宵は婆が傍にいよう」
たとえほんの僅かであったとしても、その寂寥を埋めてやる事が出来ればと婆は願う。
横たわる蓮の傍らに座すと、そっと華奢な白い手を取る。
「何の話が良い?」
婆の語る子供騙しのような噺を蓮は嬉んだ。
じいと、大きな瞳で話に聞き入る姿が幼い子供のようで、婆は愛しさと共にいつも深い哀しみを覚える。
『最後はみんなが幸せになる話がいい』
「うんそうか。そうだな」
この子がせめてと御伽噺の中に幸せを求める事を、誰が咎められるだろうか。
婆はそっと蓮の手を撫でながら、静かに語り始めた。