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三國志抄 戀〜lian〜  作者: 月
110/138

百九.

「無事なお顔を拝見して安堵致しましたわ」

 訪れた操を迎え、卞は穏やかに笑った。

 長年連れ添って来た彼女には、親愛の情とも言える想いがあり、操はいつも心の解れる思いがする。

 共に暮らす女達に対してそれぞれ想いはあるが、卞との間に流れる空気は、いつも操をただの夫に戻した。

「子供達はみな息災か」

「はい。父親に似て、やんちゃばかりで賑やかですわ」

 ほほほ。と卞が笑う。

 彼女は誰が産んだ子であっても、分け(へだ)てなく愛情を注いだ。

(わし)の留守中、何かと蓮を見舞ってくれたそうだな。礼を言う」

「まあ。珍しく早いおいでなのでどうなさったのかと思えば。ほほほ。蓮殿のおかげでしたのね」

「時に、蓮殿はいかがですの? あまり体調が良くないと聞いて心配していますのよ」

「うん……」

 操はそう言ったきり黙り込んだ。

 沈んだそのおももちに、卞の胸も痛む。

「そうですわ。良い物をお見せしましょう」

 うち沈む操を慰めようと、卞はとっておきの秘密を取り出した。

「なんだ?」

「ふふ。とっても良い物ですわ。でも、わたくしが見せたとは決して言ってはなりませんよ」

 卞はそう念を押すと、一通の書簡を差し出した。

(ふみ)か? 誰の……」

 言い掛けたそれが途切れた。

 書に落とされた瞳が何度も文字を辿(たど)り、潤む。

「あの子がこれを……」

 それは、蓮からの文だった。

 まだ(つたな)いが、ようやく書けるようになったので、伝えたかったお礼をと筆を取った事。どうか下手な()と未熟な文章を笑わないで欲しい、失礼を許して欲しいと前置きはされているが、それは見事なものだった。

 いつの間にこれだけの文を書くようになったのかと、操でさえ驚く。

 心のこもった素直な文面で卞の心遣いに礼を()べ、挨拶に伺いたいが正夫人(おくさま)にそれは叶わない事。また、自分の存在が皆様に不快な思いをさせたであろうと苦しい胸の内を(つづ)り、繰り返し蓮は謝っていた。

 最後にこれを誰にも見せないで欲しい(むね)が懇願されており、それで卞は内緒にしろと言ったのだろう。

「なぜそちなのだ。孤もまだ文をもらった事がないのだぞ」

「まあ。そんな事知りませんよ」

 これは私宛。と、卞はそれを取り上げる。

「立派な蹟ですこと。育ち盛りですもの、大きうなられたでしょうね」

 卞の記憶には、幼さの残る(かお)しかなかった。

「妾もお会いしたいのですけれど……」

 ちらりと操に視線を投げる。

「蓮の事か?」

 彼はどちらに()いているのだろうか。少々渋り顔である。

「まだ加冠前でございましょう?」

 身分ある者の妻が軽々しく人前に出ないのは卞とて承知しているが、子供相手なら良いだろうと言っているのだ。

「加冠か……」

 操はそう言ったきり、しばし考え込んだ。

 ――やはり悩んでおられるのだわ。

 その様子に、卞のそれも深くなる。

「……妾ではダメでしょうか?」

 しばらく思い悩んだ末、卞はそう切り出した。

「何がだ?」

「妾が蓮を養子に欲しいと言ったら、お笑いになります?」

「そちがか?」

 意外だったのか、操は卞を見つめた。

「そちにはもう子がおるではないか」

「ですから、それならよろしいかと思いましたの。女の浅知恵ですわ」

 仮に卞に子供がなく、蓮を養子とすれば、何かしらの画策あってと勘ぐられるだろう。

 だが、幸い卞には四人の男の子があり、一番上は最も年長の男児となって育っている。今のところ、世継ぎ候補の筆頭と言っても良い。

 正妻の立場にあり、長子の母でもある卞が蓮を養子にしても、きな臭い争いにはならないだろうと考えたのだ。

 だが、人の憶測は時に予想を越える。有らぬ(うわさ)(ささや)かれぬ保証は、どこにもなかった。

「その気持ちは嬉しいが……」

「そうですわね。もう少し後ろ盾があれば……」

 卞の養子と言っても彼女の実家には財力がないから、操が養うのと変わらない。

 もしもの時に卞家単独で蓮を支えて行けるかと考えれば、それは難しい選択だった。

「そうではないのだ。孤の子にする事も考えないわけではないのだが……」

 自分の養子としてしまえば事は簡単なのだ。

 異姓間の養子縁組は禁忌(タブー)視されてはいるが、もとより操はそんなものにはこだわらない。父も夏侯家から来た人だし、現に血縁のない子供を養子に迎えてもいる。

 ただ、蓮を(いさか)いに巻き込みたくなかった。どんな些細な懸念も、その元服に絡ませたくないのだ。

 かと言って、そういつまでも今のままとは行かない。さすがの操も決め兼ねる問題だった。

「まあ、もう少し悩んでみるさ。蓮はただの蓮で良いと思っているようだがな」

 過敏な蓮は、自分を取り巻く微妙な空気をもすでに察しているのではなかろうか。

 操に何も言わなかったが、人知れず悩んでいる様子だった。

 何かと争いに巻き込まずにはいられない己の立場も、今の操には腹立たしく思えた。

「それはともかく、そちに頼みたい事があるのだ」

「まあ、なんでございましょう?」

 珍しい事と、卞は瞳を輝かせる。

「うん。蓮の事だが、あまり良くなくてな。出来るだけ(そば)にいてやりたいのだ」

 奥向きの事を仕切っている卞に、女達の事を頼みたいと言うのだろう。

 それを察し、卞は(うなず)く。

「ようございます。奥の事はご心配なさらず、お任せください」

「うん。頼む」

「さあさあ。これでご用はお済でございましょう? 蓮殿の傍へ戻られませ」

「おいおい。孤を追い出すのか?」

「何をおっしゃいますのやら。妾はいつでもお待ち申し上げておりますのよ」

 にこりと笑う卞に、(かな)わないなと操は破顔した。

 ――いつまでも少年のような方。

 卞は、そんな夫が愛おしかった。

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